詩と音楽とにかかる橋
西山克太郎
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新音楽の会の秋の発表会は歌曲だけの作品で、昨年のモスクワ平和友好祭音楽コンクールで金賞をうけたソプラノの滝沢三重子が会員六作家の二二曲を通してうたった。丁度上田仁と交換のように来朝中であった、ロシア・ソヴェトの新進指揮者ヤンソンスも来ており、山根銀二・滑瀬保二といった先輩音楽家やら、北川冬彦・三井ふたばこ・奈切哲夫といった詩人たちのかおがみえて、秋の一夜を充分にたのしませる雰囲気であった。全曲中万葉五首と信濃古謡三篇以外は、北川・三井・西脇・宮沢賢治といった現代詩人のものであるので、詩と音楽のむすびつきというものが、どのようにあらわれているかということが、ことに詩に携わるものとしての私にとっては、極めて興味あることであったのだ。
いまの若い作曲家たちのあいだには、いわゆるシリンガー・システムとかコンクレエト・ミュウジックといった方法で、詩と音楽のむすびつきについても相当大胆な前衛的手法なり実験なりをこころみている人もあるようだが、それら
よりいくらかオルソドックスなもので、それはあった。然し、全曲をききとおしてみて、一言にしていえば、詩と音楽というもののシンクロニュムもコントラプンクトも期待はづれなむすびつきが多かったことだ。それはもちろん我々の身近にみみなれているリードとおなし考えで待遇してはならないわけだが、これはいっしょにきいていた土屋二三男もおなしような考えに辿りついていたように語っていた。「信濃古謡・わらべうた」(小山清茂)が、ひいきめかもしれないが圧倒的にひかっており、また「春幾春」(城左門詩・深井史朗曲)のようにすでに四半世紀もけみしている曲が、いまだに新しい感動をもって追ってくるものがあった。之はボオドレエルの作品が歌曲となればはるかに音楽的であり、コクトオが自作朗読した場合もより音楽的であったことと比べて、考えねばならないものがあるようである。(あとできいたのではヤンソンスの興味をひいたものとしても、小山作品であったという。もちろんヤンソンスの立場というものを考えれば、おそらくこの民族的匂いというものをより高く評価しているのであろう。)
(つづく)
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