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『エリュアール』 3.第一次大戦後とダダ(2)

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 戦争は終った。千万の人間を虐殺した怖るべき戦争は終った。若者たちはその戦争を招来した世界を批判し非難する。「旗は汚らわしい風景のなかを行くのだ」(『イリュミナシオン』──「デモクラシー」)というランボオ風な嫌悪と汚辱感がひろがり、生き残った人びとはこのランボオ風な嘲笑罵倒を社会に投げつける。反抗の運動はフランスにとどまらずその他の国ぐににも影響を与える。
 ダダの反抗運動は一九一六年チューリッヒで生まれた。トリスタン・ツアラやジャン・アルプなどが、反芸術、反文学、偶像破壊を旗じるしにダダの運動を始めていた。
 その頃、兵役拒否者、脱走兵、革命家などが戦争を避けてスイスに集っていた。若いブルジョワ詩人の反抗とほんものの革命の胎動とがチューリッヒには奇妙に共存していた。ツアラたちはキャバレ・ヴォルテールにとぐろを巻いていた。ジョルジュ・ユニェは書く。
 「キャバレはスピーゲルガッセ一番地にあった。同じ街の十二番地に、レーニンが妻のクループスカヤといっしょに住んでいた。レーニンはよくカフェ・テラスでチェスをし、ダダイストたちもまたチェスをした。彼らは親しかったが、おたがいに素姓を知らずにいた……」(《L' Aventure Dada》 P. 23)
 何ものをも意味しないダダという旗を振りかざしたダダの刊行物、とりわけ攻撃的なその宣言は、たちまちヨーロッパじゅうで有名になる。
 一九一七年、「ダダ」一号がチューリッヒで刊行される。バルセロナにはフランシス・ピカビアの雑誌が現われ、パリに「南北《ノール・スド》」誌が現われる。ドイツのケルンには画家マックス・エルンストがおり、ニューヨークにはマルセル・デュシャンと写真家マン・レイがおり、パリにはブルトン、アラゴン、スーポー、そしてエリュアールがいた。これらの詩人芸術家たちはたちまちのうちに合流して、共同の運動をすすめることになる。
 ちょっとおくれて一九二三年、日本にもダダイズムの詩の雑誌として、壺井繁治らの『赤と黒』が発刊される。その創刊号表紙の有名な宣言はいう。〈詩とは? 詩人とは? 我々は過去の一切の概念を放棄して、大胆に断言する!『詩とは爆弾である! 詩人とは牢獄の固き壁と扉とに爆弾を投ずる黒き犯人である』(壷井繁治執筆)。またその頃ダダイストとして、アナキズム系詩誌『鎖』の中心に立っていた詩人に陀田勘助がいる。一九二八年、彼は日本共産党に入党する(新日本出版社『日本プロレタリア文学集38─プロレタリア詩集(1)』土井大助解説参照)。──一九二六年、エリュアールもまた一時的にもせよフランス共産党に入党する──このような思想的な発展の軌跡を、土井大助はつぎのように描く。
 「ダダイスト詩人→アナキスト→共産党員といった曲折前進をたどったのは、陀田勘助だけではない。おなじダダの『赤と黒』から出発した五歳年上の壺井繁治も同様の転換をとげて、ナップに参加した」(「よみがえるプロレタリア詩(4)」一九八七年七月七日付「赤旗」)
 おなじような思想的前進の動きは、同じ世代にぞくする、チリのパブロ・ネルーダについても、あるいはまたスペインの大詩人ラファエル・アルベルティについても見られるであろう。
 つまり、ダダの反抗と破壊は、ありきたりの文学流派の運動を越えて、一九二〇年代の世界的な現象であったといえよう。マルセル・レイモンは書いている。
 「〈生を変える〉というランボオの意思が一種の熱狂をよびおこすためには、──モラル、文学、自明の理、日常茶飯事にたいする反抗だけが、若者たちにとって受け入れうる唯一の態度と見えるためには、恐らく戦争という大事件が必要だった。もしもひとが、ダダ運動のなかに、乱暴でばかげたパリ風なスキャンダルだけを見ようとするなら、一九二〇年代の深刻な精神的危機をまったく理解することができないし、また多くの伝統的な規則や古い信仰をくつがえし、奉仕を拒否する、アナーキーな個人主義の風潮を理解することもできない」(『ボードレールからシュールレアリスムへ』)
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