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チリ軍政16年の歴史(下)▼国民投票に向けて「ノー」の運動(1987〜1988年)▼民政移管へ(1989年〜1991年)

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▼国民投票に向けて「ノー」の運動(一九八七〜一九八八年)
 ピノチェト暗殺未遂事件以後、ポブラシオン住民、学生、労働者による抗議行動は衰退した。そして、八九年三月に任期が切れるピノチェト大統領の後任をめぐる「一九八九年問題」が最大の焦点として浮上してくるなかで、主要な舞台は政治へと移り、政党が主役として登場してきた。
 憲法の規定によれば、軍指名の候補者に対し国民投票で信任が問われることとなっていたが、反軍政派は自由選挙を要求した。しかし、政府はこれを受け入れず、反軍政派は激しい議論の後、ついに国民投票への参加を決定するにいたった。
 一九八八年二月、反軍政十三政党は「ノーをめざす政党連合」を結成し、「ノー」のための運動が始まった。有権者に対し選挙人登録を行なうように働きかけ、投票・開票の公正さを保証するため立会人を組織し、独自の開票集計体制を設けた。
 軍政側はピノチェトを大統領候補に指名した。しかし十月の国民投票で「ノー」が五十五パーセントを獲得し、ピノチェトは不信任された。この「ノー」の勝利により民主化への流れが一挙に加速された。

  一九八七年
3月23日 政党法公布。
4月10日 ローマ法王チリ訪問。
6月25日 共産党、社会党左派などが「統一左翼」結成。
87年中頃 マヌエル・ロドリゲス愛国戦線の主流派は共産党と関係断絶、「自立派」を名乗る。共産党系の少数派は武装活動を休止。

  一九八八年
2月2日 野党十三党が国民投票に関する統一協定に署名。「統一左翼」の社会党左派、キリスト教左翼は参加。共産党、革命左翼運動は不参加。
8月30日 軍はピノチェトを次期大統領候補に指名。
10月5日 ピノチェト大統領再任の可否を問う国民投票が実施。賛成四三パーセント、反対五五パーセントで不信任。

▼民政移管へ(一九八九年〜一九九一年)
 国民投票でピノチュトが不信任されたことにより、ピノチェトの大統領任期は一年延長され、その間に複数候補者による大統領選挙が実施されることとなった。
 反軍政勢力は、ピノチェト離れを強めていた最大の右派政党「国家革新党」と歩調を合わせて政府に憲法改正を迫り、政府も譲歩して、反共規定の廃止など憲法の一部改正が実現した、八九年十二月の大統領選挙では、反軍政勢力の推すエイルウィンが軍政側候補者ピュッヒをおさえて勝利し、九一年三月十一日、大統領に就任。十六年半に及ぶ軍政はついに終止符を打たれた。

  一九八九年
4月28日 ピノチェトは新政権成立も軍司令官として留任すると言明。
7月 憲法改正の国民投票。賛成多数で承認。
12月14日 大統領選挙、国会議員選挙。エイルウィンが五五パーセントを獲得して勝利。上下両院で反軍政勢力が過半数獲得。

  一九九〇年
3月11日 エイルウィン新政権成立。

<『チリ人民連帯ニュース』第39号(最終号)1991年4月20日>
 
ノー
NO 国民投票での勝利に向けて



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