▼経済モデルが危機に(一九八一年〜一九八二年)
新憲法をめぐる国民投票で反対派を破り、新憲法が発効したことで、軍事政権は政治的な安定を達成した。これに対し、反軍政勢力のなかでは、独裁打倒の道に関して対立が激しくなり、共産党は武装闘争路線に転換した。
この時期、それまで急成長していたチリ経済は失速状態に入り、一九八二年には過去半世紀で最悪と言われるほどの深刻な不況に陥った。失業率は二十一パーセントに達した。それとともに軍政への不満もさまざまな形で噴き出した。飢餓行進もはじめて実施された。
デモは激しく弾圧され、私服姿の武装グループがデモ参加者や報道陣へ暴行をはたらいた。
一九八一年
6月1日 新憲法が公布。
一九八二年
2月4日 労働運動統一のために活動していた組合指導者ヒメネスが首を切られた遺体で発見。
12月2日 都心で物価上昇と失業にたいする抗議集会。二十九人が逮捕。
12月24日 政府は百二十五名の亡命者の帰国を認める。
▼反軍政抗議運動が盛り上がる(一九八三年〜一九八六年)
経済危機の進行を背景に、かつてない規模の反軍政抗議行動が勃発した。毎月のように抗議デーが設定され、デモ、抗議行動がくりかえされた。
これとともに野党が表舞台に公然と登場し、中道と左派の一部は「民主同盟」(AD)を、左派は「人民民主運動」(MDP)を結成した。さらに広範な社会団体を結集した「市民会議」も結成された。
政府はアメとムチの政策でこれに対抗した。ピノチェトは一方で内相に老練な政治家ハルパを起用し「民主同盟」との対話路線によって野党勢力の懐柔・分断を図るとともに、他方で戒厳令復活によって反軍政運動の力による抑え込みを図った。
反軍政勢力の一部は武装志向を強め、共産党はゲリラ組織マヌエル・ロドリゲス愛国戦線を創設した。反軍政勢力の内部では武装路線の是非をめぐって論争・対立が激しくなったが、北部での大量の武器発見(八六年八月)とピノチェト暗殺未遂事件(八六年九月)以降、武装路線を掲げる勢力は後退し、街頭での抗議行動も衰退を見せた。以後、反軍政勢力のあいだでは政治闘争による独裁打倒の道が模索されていく。
一九八三年
5月1日 メーデー集会。私服の武装集団が襲撃。
5月6日 進歩派のシルバ・エンリケス枢機卿に代って保守派のフレスノがサンティアゴ大司教に就任。
5月1日 鉱山労働組合の呼びかけで第一回反軍政抗議デーが実施。予想を上回る規模で、クーデター以後十年間で最大の反軍政運動となる。
5月21日 労働組合組織が全国労働者運動本部(CNT)を結成。
6月〜7月 反軍政抗議デー第二波、第三波が実施。
8月11日 第四波抗議デー。政府は一万八千人の兵士を動員して弾圧。死者十七人、負傷者六十五人。
8月6日 キリスト教民主党、社会党などが民主同盟(AD)結成。
8月25日 民主同盟とハルパ内相が第一回会談。民主同盟は非常事態の解除を要求。
8月27日 政府は非常事態を解除。
9月 共産党、社会党左派、革命左翼運動が人民民主運動(MDP)結成。
9月8日 抗議デー
10月11〜13日 抗議デー
11月 サンティアゴ市オヒギンス公園で反軍政大集会。
一九八四年
3月27日 全国抗議運動、ゼネストの様相を帯びる。
5月1日 軍政下最初の大規限なメーデー集会
5月14日 反テロリズム法公布。
8月9日 「チリはいのちを守る」日、数千人が街頭で合唱し、献花し、ロウソクを灯す。
9月4〜5日 反軍政抗議デー。
10月31日 全国スト。九人が死亡
11月7日 戒戦令発令。
一九八五年
2月1日 ハルパ内相辞任。
3月29日 三人の共産党員が白昼誘拐され、翌日遺体で発見。
4月11日 GNTの呼びかけで抗議デー「命を守る日」実施。
5月1日 メーデー、CNT主催の集会に約千人参加、警察は催涙弾でデモを阻止。
6月17日 戒載令解除、非常事態令は延長。
8月2日 共産党員殺害事件が国家警察軍の犯行であることが判明し、メンドーサ司令官が辞任。
8月26日 フレスノ大司教の仲介で右派から左派にいたる幅広い勢力が「民主主義への完全な移行のための国民協定」に署名。極右と共産党、革命的左翼運動は不参加。
6月4・5日 労働者全国運動本部の呼びかけで抗議デー実施、死者十一人。
11月21日 サンティアゴ市で民主同盟主催の大集会。
85年末 反軍政勢力は八六年を「決定的年」と位置づける。
一九八六年
4月26日 「全国市民会議が結成。医師会、ジャーナリスト組合、弁護士会、労働組合、同業組合、全国農民委員会、小売商組合連合、トラック業者連合など三百組織を結集。「チリの要求」を発表。
5月1日 メーデー集会を武装兵を動員して弾圧。
7月2・5日 市民会議の呼びかけた全国ストが成功。
8月6日 チリ北部で反政府ゲリラ組織の大量の武器発見。
9月7日 マヌエル・ロドリゲス愛国戦線がピノチェトを襲撃したが、失敗。戒厳令発令。反政府系週刊誌「アナリシス」のカラスコが誘拐され暗殺。
12月31日 ピノチェトは戒厳令の解除と一部亡命者の帰国許可を発表。
(つづく)
<『チリ人民連帯ニュース』第39号(最終号)1991年4月20日>
新憲法をめぐる国民投票で反対派を破り、新憲法が発効したことで、軍事政権は政治的な安定を達成した。これに対し、反軍政勢力のなかでは、独裁打倒の道に関して対立が激しくなり、共産党は武装闘争路線に転換した。
この時期、それまで急成長していたチリ経済は失速状態に入り、一九八二年には過去半世紀で最悪と言われるほどの深刻な不況に陥った。失業率は二十一パーセントに達した。それとともに軍政への不満もさまざまな形で噴き出した。飢餓行進もはじめて実施された。
デモは激しく弾圧され、私服姿の武装グループがデモ参加者や報道陣へ暴行をはたらいた。
一九八一年
6月1日 新憲法が公布。
一九八二年
2月4日 労働運動統一のために活動していた組合指導者ヒメネスが首を切られた遺体で発見。
12月2日 都心で物価上昇と失業にたいする抗議集会。二十九人が逮捕。
12月24日 政府は百二十五名の亡命者の帰国を認める。
▼反軍政抗議運動が盛り上がる(一九八三年〜一九八六年)
経済危機の進行を背景に、かつてない規模の反軍政抗議行動が勃発した。毎月のように抗議デーが設定され、デモ、抗議行動がくりかえされた。
これとともに野党が表舞台に公然と登場し、中道と左派の一部は「民主同盟」(AD)を、左派は「人民民主運動」(MDP)を結成した。さらに広範な社会団体を結集した「市民会議」も結成された。
政府はアメとムチの政策でこれに対抗した。ピノチェトは一方で内相に老練な政治家ハルパを起用し「民主同盟」との対話路線によって野党勢力の懐柔・分断を図るとともに、他方で戒厳令復活によって反軍政運動の力による抑え込みを図った。
反軍政勢力の一部は武装志向を強め、共産党はゲリラ組織マヌエル・ロドリゲス愛国戦線を創設した。反軍政勢力の内部では武装路線の是非をめぐって論争・対立が激しくなったが、北部での大量の武器発見(八六年八月)とピノチェト暗殺未遂事件(八六年九月)以降、武装路線を掲げる勢力は後退し、街頭での抗議行動も衰退を見せた。以後、反軍政勢力のあいだでは政治闘争による独裁打倒の道が模索されていく。
一九八三年
5月1日 メーデー集会。私服の武装集団が襲撃。
5月6日 進歩派のシルバ・エンリケス枢機卿に代って保守派のフレスノがサンティアゴ大司教に就任。
5月1日 鉱山労働組合の呼びかけで第一回反軍政抗議デーが実施。予想を上回る規模で、クーデター以後十年間で最大の反軍政運動となる。
5月21日 労働組合組織が全国労働者運動本部(CNT)を結成。
6月〜7月 反軍政抗議デー第二波、第三波が実施。
8月11日 第四波抗議デー。政府は一万八千人の兵士を動員して弾圧。死者十七人、負傷者六十五人。
8月6日 キリスト教民主党、社会党などが民主同盟(AD)結成。
8月25日 民主同盟とハルパ内相が第一回会談。民主同盟は非常事態の解除を要求。
8月27日 政府は非常事態を解除。
9月 共産党、社会党左派、革命左翼運動が人民民主運動(MDP)結成。
9月8日 抗議デー
10月11〜13日 抗議デー
11月 サンティアゴ市オヒギンス公園で反軍政大集会。
一九八四年
3月27日 全国抗議運動、ゼネストの様相を帯びる。
5月1日 軍政下最初の大規限なメーデー集会
5月14日 反テロリズム法公布。
8月9日 「チリはいのちを守る」日、数千人が街頭で合唱し、献花し、ロウソクを灯す。
9月4〜5日 反軍政抗議デー。
10月31日 全国スト。九人が死亡
11月7日 戒戦令発令。
一九八五年
2月1日 ハルパ内相辞任。
3月29日 三人の共産党員が白昼誘拐され、翌日遺体で発見。
4月11日 GNTの呼びかけで抗議デー「命を守る日」実施。
5月1日 メーデー、CNT主催の集会に約千人参加、警察は催涙弾でデモを阻止。
6月17日 戒載令解除、非常事態令は延長。
8月2日 共産党員殺害事件が国家警察軍の犯行であることが判明し、メンドーサ司令官が辞任。
8月26日 フレスノ大司教の仲介で右派から左派にいたる幅広い勢力が「民主主義への完全な移行のための国民協定」に署名。極右と共産党、革命的左翼運動は不参加。
6月4・5日 労働者全国運動本部の呼びかけで抗議デー実施、死者十一人。
11月21日 サンティアゴ市で民主同盟主催の大集会。
85年末 反軍政勢力は八六年を「決定的年」と位置づける。
一九八六年
4月26日 「全国市民会議が結成。医師会、ジャーナリスト組合、弁護士会、労働組合、同業組合、全国農民委員会、小売商組合連合、トラック業者連合など三百組織を結集。「チリの要求」を発表。
5月1日 メーデー集会を武装兵を動員して弾圧。
7月2・5日 市民会議の呼びかけた全国ストが成功。
8月6日 チリ北部で反政府ゲリラ組織の大量の武器発見。
9月7日 マヌエル・ロドリゲス愛国戦線がピノチェトを襲撃したが、失敗。戒厳令発令。反政府系週刊誌「アナリシス」のカラスコが誘拐され暗殺。
12月31日 ピノチェトは戒厳令の解除と一部亡命者の帰国許可を発表。
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