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チリ軍政16年の歴史(上)▼クーデター・弾圧・恐怖(1973年〜1976年)▼強権体制の制度化(1977年〜1980年)

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資料 軍政16年の歴史

▼クーデター・弾圧・恐怖(一九七三年〜一九七六年)
 クーデターによってアジェンデ政権が倒され、軍事政権が成立した。軍事評議会は全権力を掌握し、銃剣による支配体制を打ち立てた。恐怖が支配した。多数の人々が逮捕、処刑、拷問され、各国大使館は亡命者であふれた。秘密警察が創設され、令状なしに人々を連行し、多くはそのまま行方不明となった。議会は閉鎖され、政党活動は禁止された。
 左翼政党が弾圧され大衆組職が解体されるなかで、カトリック教会が人権擁護のために活動した。教会は救援組織「連帯ビカリア」を設立し、失業者や政治囚の救援活動にあたった。また行方不明者の妻や母親は「行方不明者家族会」を組織した。これは軍政の下で生まれた初の反軍政組職となった。
 政府は一九七五年に「ショック政策」を実施、インフレ抑止のための超緊縮政策をとった。その結果、大量の失業者が生み出され、ポブラシオン(低所得者層居住地区)では貧困化がすすんだ。

  一九七三年
9月11日 軍事クーデター、大統領官邸モネダ宮爆撃。アジュンデ大統領死亡、軍事評議会が成立(ピノチェト陸軍司令官、メリーノ海軍司令官、リー空軍司令官、メンドーサ国家警察軍司令官)。戒厳令・外出禁止令発令。

  一九七四年
6月14日 政令五二一号により秘密警察「全国情報局」(DINA)が正式に設立。クーデター直後から実質的に活動。
9月30日 ブエノスアイレスでチリ陸軍内の護憲派で前陸軍司令官プラッツ将軍夫妻が爆殺。
74年末 「行方不明逮捕者家族会」が誕生。

  一九七五年
10月6日 キリスト教民主党指導者レイトン元副大統領夫妻がローマで襲撃され重傷を負う。
12月 「平和のための委員会」は、七三年クーデター以来六千九百九十四人が逮捕され、うち千四十八人が行方不明との数字を発表。

  一九七六年
1月1日 カトリック教会のシルバ・エンリケス大司教は弾圧犠牲者救済のため「連帯ビカリア」設立。
9月21日 ワシントンでレテリエル元外相が車に爆弾を仕掛けられ、秘書とともに爆殺。
10月 国連の作業グルーブはチリにおける人権侵害を非難する報告書を作成。

▼強権体制の制度化(一九七七年〜一九八〇年)
 この時期、軍事政権は強権支配の制度化をめざした。その集大成が一九八〇年の国民投票で承認された新憲法である。同憲法は「マルクス主義政党の禁止、任命議員制、軍の政治介入制度化などきわめて権威主義的性格が強いものだった。他方、経済的には、自由開放政策が軍政の経済モデルとして確立された。
 同時に政権内部での対立も表面化し、ピノチェトへの権力集中に批判的だったリー空軍司令官が解任された。
 反軍政運動もようやく生まれ始めた。行方不明者の家族が夫や父親、息子の消息を求めてハンスト、集会、デモなどの活動をすすめた。労働運動は、企業主に大幅な解雇権を与えた新労働法の制定によって大きな打撃を受けたが、七九年以後、メーデー記念のデモ・集会を実施し、また国際婦人デー(三月八日)や、クーデター記念日(九月十一日)にもデモが行なわれるようになった。

  一九七七年
6月14日 行方不明逮捕者の家族二十八人が国連ラテンアメリカ経済委員会(CEPAL)本部前でハンスト開始。九日間続く。世界的な連帯の動きが起こる。
7月9日 ピノチェトは新体制の制度化計画(チャカリージャス・ブラン)を発表。
8月12日 秘密警察「国家情報局」(DINA)が解散。代って「国家中央情報局」(CNI)が設立。

  一九七八年
1月4日 国連のチリ非難決議にたいし、ピノチェトは「チリの尊厳防衛において共和国大統領を支持するか否か」を間う国民投票を実施、七五パーセントが支持。
3月10日 戒厳令解除、非常事態令。
4月19日 「恩赦法」公布。七三年クーデター以降の人権侵害責任者を免責。
5月21日 行方不明逮捕者の家族がサンティアゴでハンスト。
6月16日 労働法が改正。労働者の権利が大幅に縮小。
7月24日 リー空軍司令官が解任。マテイ将軍が新司令官に任命。
12月1日 ロンケンの廃鉱で行方不明者十五人の遺体が発見。

  一九七九年
3月8日 国際姉人デーを記念しサンティアゴ中心部でデモ。
5月1日 メーデーでデモ、三百六十五人が逮捕。
9月4日 大統領選挙投票日を記念して街頭デモ。十一人が逮捕
9月8日 行方不明者家族のハンスト支援集会で四十人が逮捕。
10月2日 ジュンベルの墓地で十八人の遺体が発掘。行方不明者のものであることが判明。

  一九八〇年
3月21日 ピノチェトはマルコス大統領の招待を受けてフィリピン訪問へ出発。フィジーで抗議デモで迎えられる。マルコスは招待を取り消す。二十三日、ピノチェト帰国。
9月11日 新憲法についての国民投票実施、賛成六七パーセント、反対三〇パーセントで承認。
<『チリ人民連帯ニュース』第39号(最終号)1991年4月20日>
 
チリ連ニュース

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