このバジリカ大聖堂の前に、道はばの狭い街通りがじかにつづいていて、きわだった異様な対照をみせていた。エリュアールの記念室のあるサン・ドニ郷土資料館は、大聖堂のすぐ近く、その斜めまえの小路にあった。中に入ると、受付のところで、絵はがきやエリュアールのカタローグといっしょに、『パリ・コミューヌ』という本を売っていた。これは、一九七一年、ここでひらかれたパリ・コミューヌ百周年記念展覧会に出品された、コミューヌの頃のビラ、デッサン、版画、その他の資料を編集したものである。つまり、サン・ドニは大革命の時だけでなく、パリ・コミューヌの時にも、「赤い町」として活躍したのである。
エリュアールの記念室は二階にある。彼の原稿や写真や初版本詩集などは二階の二つの部屋にならべられており、いちばん奥の小さな部屋は、エリュアール生前の書斎をそのまま再現している。壁にはピカソの「鳩」が飾られ、本棚の上にはボードレールの小さな胸像が置かれており、本棚にはほかのフランス本にまじって、大佛次郎の『パリ燃ゆ』二巻がならんでいて、わたしを驚かせたり、なつかしがらせたりした。『パリ燃ゆ』を書くため、パリ・コミューヌの資料しらべに、大佛次郎はたしか一九六一年にこの資料館を訪れているのだ。恐らく、そのとき世話になった返礼に、刊行された『パリ燃ゆ』二巻がここに寄贈され、資料館の側では、それを置く適当な場所がないままに、エリュアールの本棚にならべたのであろう。エリュアールはすでに一九五二年に死んでいたのだから、彼にこの本が贈られたとは考えられない。わたしがここを訪れたのは一九七四年の八月であった。
エリュアールの両親はきわめてつつましい庶民で、社会的に何ひとつ目立つところのない、ありふれた小ブルジョワの家庭であった。父親のクレマン・ウジェーヌ・グランデルはノルマンディの農民の出で、社会主義者で、会計係として働いていた。母親のジャンヌ・マリ・クーザンはサン・ドニ生まれだったが、祖先はピカルディ地方の出であった。彼女は自分で婦人服の仕立屋を営んでいた。彼女が五歳年うえのクレマン・ウジェーヌと結婚したとき、彼女は二十歳だった。
一八九四年、若い夫婦はサン・ドニのジュール・ゲード街四六番地に住居をかまえる(サン・ドニはパリ・コミューヌにかかわりの深い赤い町として知られているが、このジュール・ゲードという名前も意味ぶかい。彼は一八七九年、フランスの労働運動のなかにマルクス主義を導入した政治家である)。ここで結婚後一年、男の子が生まれ、ウジェーヌ・エミル・ポールと名づけられる。
父親のクレマン・グランデルは一八九五年には会計係だったが、まもなく不動産業に身を投じて、大いに成功することになる。
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