日本民主主義文学会ならしの支部の3月例会に出席しました。
初めて詩を取りあげるということでお招きをうけ、博光の紹介と詩の朗読をしました。
「友よわたしが死んだら」「千曲川におくる歌」などを聞いて、「ふるさとを思う気持ちが心にしみてじーんとなった」「朗読で耳から鑑賞するのもいい」との感想。「博光さんの詩は自然を歌っているが、その中に必ず人間のことが書いてある」と塚田さんが指摘しました。
博光が詩「春がきたら」についての解説で
” 三月の空にもえる 千の若葉が / 千のばけつで汲みあげるから
という詩句は、井戸というイメージにつづいて、自然に出てきたものです。ここで、「千の若葉が──千のばけつで」といったのは、たんに、漠然(ばくぜん)と生命のさかんなありさまを歌うのではなしに、若葉のようなものまでも、千、万と集まって、つまり集団として水を吸いあげれば、井戸の水位さえひくくなるのだ、ということを強調したいためなのです。ぜんたいとして、「春がきたら」というこの詩は、地上にやってくる春ばかりでなしに、わたしたち人間界にも訪れてくる春のことをも、それにふくませて歌っているのです。”と述べているのを思い出しました。→

初めて詩を取りあげるということでお招きをうけ、博光の紹介と詩の朗読をしました。
「友よわたしが死んだら」「千曲川におくる歌」などを聞いて、「ふるさとを思う気持ちが心にしみてじーんとなった」「朗読で耳から鑑賞するのもいい」との感想。「博光さんの詩は自然を歌っているが、その中に必ず人間のことが書いてある」と塚田さんが指摘しました。
博光が詩「春がきたら」についての解説で
” 三月の空にもえる 千の若葉が / 千のばけつで汲みあげるから
という詩句は、井戸というイメージにつづいて、自然に出てきたものです。ここで、「千の若葉が──千のばけつで」といったのは、たんに、漠然(ばくぜん)と生命のさかんなありさまを歌うのではなしに、若葉のようなものまでも、千、万と集まって、つまり集団として水を吸いあげれば、井戸の水位さえひくくなるのだ、ということを強調したいためなのです。ぜんたいとして、「春がきたら」というこの詩は、地上にやってくる春ばかりでなしに、わたしたち人間界にも訪れてくる春のことをも、それにふくませて歌っているのです。”と述べているのを思い出しました。→

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