つぎに、最後の歌「いつかわたしの詩『エルザ』は……」のなかの未来への希望と委託の詩章を引用しておこう。
そのときひとは聞くだろう 狂ったような調べの下に
めくら滅法な言葉のなかに 狂気の叫びを
未来を約束された 偉大な人類の薔微の木が
あの きみの愛によって 花ひらくのを
そのとき 消えることのない心臓の音が聞こえ
そのとき 墓石のしたから嗚咽《おえつ》の声が聞こえ
わたしのきずなの絡みついたところに血が滲《にじ》み
わたしの夜が朝を準備したことをひとは知るだろう
もう われらの時代の奇妙な悪をもたぬ人たちの唇に
いつか わが詩「エルザ」はのぼるだろう
かれらはびちびちした子どもたちに教えてその眼を
開くだろう 愛とはひと時の熱病などではないことを
愛が年齢にうち勝てない というのは真実でなく
人生と愛とは最後まで おんなじものだということを
葡萄棚のように 堅く結びついた恋びとたちがあり
静脈が青いかぎり そこには酒が流れているということを
めくら滅法な言葉のなかに 狂気の叫びを
未来を約束された 偉大な人類の薔微の木が
あの きみの愛によって 花ひらくのを
そのとき 消えることのない心臓の音が聞こえ
そのとき 墓石のしたから嗚咽《おえつ》の声が聞こえ
わたしのきずなの絡みついたところに血が滲《にじ》み
わたしの夜が朝を準備したことをひとは知るだろう
もう われらの時代の奇妙な悪をもたぬ人たちの唇に
いつか わが詩「エルザ」はのぼるだろう
かれらはびちびちした子どもたちに教えてその眼を
開くだろう 愛とはひと時の熱病などではないことを
愛が年齢にうち勝てない というのは真実でなく
人生と愛とは最後まで おんなじものだということを
葡萄棚のように 堅く結びついた恋びとたちがあり
静脈が青いかぎり そこには酒が流れているということを
なおこの詩にふれてアラゴンは、一九五九年五月七日、モスクワでひらかれた「エルザの夕べ」でつぎのように語っている。
「……わたしの詩はわたしの小説とおなじく現実主義的である。したがって『エルザ』はひとつの象徴ではない。わたしが彼女について語っていることは、隠喩《メタフォル》のたぐいではない。……ここで語られているのはひとりの実在の女であり、この本の作者との関係、彼女の生きている世界との関係によって、社会的に決定づけられている女である。そしてここでの彼女と作者との関係は、ダンテがベアトリーチェにたいしてもっていたような非現実的な関係ではない。
……初めて『エルザ』において、わたしは真にひとりの積極的な主人公をもった本を書いた のである。
このことはむろん儀礼やパラドックスから言われているのではないことを信じていただきたい。過去の愛の詩において、その本質的特徴をなしているのはつねに愛であり、その愛がささげられている女の映像はつねに多かれ少なかれ詩人の創作にとどまっていた。ところがこの本では、愛はただその対象を照しだすという意図しかもっていない。『ェルザ』はひとつの肖像であり、したがってレアリスムの詩である』(『わが手の内を見せる』)
(この項おわり)
- 関連記事
-
-
アラゴン『詩人たち』(下) 2022/01/27
-
アラゴン『詩人たち』(上) 2022/01/26
-
アラゴン『エルザ』(下) 2022/01/25
-
リラと薔薇(ダンケルクの悲劇) 2018/03/31
-
『エルザ』(中) 2017/12/29
-
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/5066-ec2c9cfa
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック