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『橋』の詩人・長岡昭四郎と大島博光

ここでは、「『橋』の詩人・長岡昭四郎と大島博光」 に関する記事を紹介しています。

長岡昭四郎と1
長岡昭四郎と2


198510
長岡昭四郎さん(右)と大島博光 1985年10月、三鷹の大島博光宅にて

* 長岡昭四郎さんは2021年8月に逝去されました。91歳。




『橋』の詩人・長岡昭四郎と大島博光
                                大島朋光

 長岡昭四郎は松本出身の詩人。若い頃東京に出て板橋区で鍼灸院を開業しながら詩作を続け、一九八二年に板橋詩人会を結成、会誌『橋』を十五年間にわたり発行しました。大島博光は賛助会員として板橋詩人会に迎えられ、『橋』に作品を発表し、朗読会などに参加しました。
 清沢清志の薫陶
 昭和十九年から長岡昭四郎が学んだ県立松本工業学校の文学の教師が殿内芳樹で、同級だった綿内千文(わたうちちふみ)とともに現代詩の指導を受けました。昭和二十二年、卒業すると同時に中信詩人協会に推薦され、ここで高橋玄一郎や清沢清志の薫陶を受けることになります。
「松本工業卒業後は叔父の店で働く。穂高では清沢清志(吉行淳之介の父エイスケの友人)は穂高の貴族と言われていた。大島博光とも親しく、文学的素養は抜群で、話し上手に引かれて三日にあげず、その話を聞きに行く。清沢清志の薫陶を受けたと言うべきであろう」「清沢清志の子息(長男哲一郎)が東京の大学へ行くようになったとき、借りた二階の部屋の下が、西條八十の発行していた詩誌、蝋人形の編集所であり、その編集をやっていたのが大島博光だった。と言うことは大島博光とはそれ以前から清沢家とは交友があり、哲一郎の部屋もその関係で借りたものだった。大島博光は穂高にも遊びに来て、穂高の小路と言われた芸者町に行った話もしていた。そんなことも私に語られ、大島博光とは始めて会ったときから旧い友人のようにつき合ってくれたので、私は東京に居をかまえたときから、三鷹の大島博光の家には奥さんが亡くなられた後も昼食など持って度々遊びに行った。その頃大島さんに色紙を沢山かいてもらった。……清沢清志との旧交が、私にも大変な親しみを持たせていた」(長岡昭四郎「自分史」)
 板橋詩人会の会誌『橋』
 一九八二年十一月、長岡は綿内千文と協力して板橋詩人会を結成しました。板橋区に住む詩人たちの親睦と交流を目的とする会で、結成した理由について「一昨年松本に一人で住んでいた父が他界した。……漸く私は乳離れのしたような気持になれた。……もう板橋を永住の地と決めてもいいのではないかと思った。そこで自分のライフワークは何んだと問うてみた。……終戦後すぐ詩を書きはじめた私は途中寄り道はしていたが、詩から離れられず、何時の間にか自分の心のほとんどの領域を占めてしまっているのに気がついた。それにしては、詩を書く仲間が少なく板橋を永住の地と決めた私は淋しすぎたのだ」(『橋』第一号「追憶の詩」)と述べています。
 『橋』はB五版の会報の体裁をとり、年四会発行、内容も会員の作品のほかに、会の行事の案内や報告、会員の近況、区内の詩誌の紹介などを詳しく取りあげている点で他の詩誌と趣を異にし、詩人や詩人団体の動向を伝える情報誌の役割を果たしました。
 長岡の熱意と編集手腕のもとに板橋詩人会は活発に活動し、板橋区在住以外の詩人も迎え入れたために全国から多くの詩人が参加し、九七年四月には会員が六十名余りに上りました。地域性の関係で板橋詩人連盟が結成され、九七年に解散するまで十五年間続きました。この間、『橋』の発行は全部で五十二号になります。
 発足時より板橋詩人会への入会を誘われていた博光は板橋区在住でないからと断りましたが、長岡は賛助会員の制度をつくって入会させました。博光が『橋』に発表・掲載した詩や訳詩などは二十五篇にのぼり、多くが『冬の歌』(一九九一年)と『老いたるオルフェの歌』(一九九五年)に収められています。
 戦争に反対する詩人の会
 鈴木初江が立ち上げた「戦争に反対する詩人の会」は詩人の全国組織として活発に活動しましたが、長岡は積極的にこの会に参加しました。『橋』で取り上げて紹介し、板橋詩人会も協力して活動ににとりくみました。(つけ加えますと、「戦争に反対する詩人の会」には長野の小熊忠二も参加しました。親密な詩友だった小熊に博光は自分の詩が掲載された『橋』を必ず送り、小熊は熱烈な感想を書いて返信していました。)
 大島博光詩集「ひとを愛するものは」出版祝賀会
 長岡は面倒見がよく、お祭り好きだったようで、詩の祭りや仲間の詩集出版を祝う会をたびたび開きました。一九八四年、博光が処女詩集「ひとを愛するものは」を刊行したとき、出版祝賀会を企画し、発起人となって呼びかけ、板橋詩人会の協力を得て準備がすすめられました。この詩集が多喜二・百合子賞を受賞したお祝いも加わって一九八五年四月七日、池袋の東方会館は大勢の詩人・友人が集まる華やかなパーティとなり、静江は「喜びに輝いて」(西條八束)忘れられない日となりました。一九九五年四月には「老いたるオルフェの歌」出版を祝う会(呼びかけ人)を開催しました。
 二〇〇六年、大島博光が逝去したおりには、柳沢さつき主宰の詩誌『かおす』一一〇号に「大島博光さんを追悼する」を書いて偲んでいます。

 今年二月に重田暁輝さんと一緒に板橋のお宅を初めてお訪ねしました。『橋』のおかげで博光もたくさん詩を発表できました、と感謝を述べますと、「そう言っていただけて嬉しい。こんな幸せなことはない」と言われ、「自分の一生は文学の一生だった」「『橋』を紹介されることはすごく嬉しい。ありがたい」と喜ばれました。「松本の今は誰も住んでいない実家に高橋玄一郎の写真と書が飾ってある、それを見せたい」と言われましたので、暖かくなったら松本へ行きましょう、と約束しました。お孫さんが作家の島本理生と聞いて重田さんがびっくり、小説「リトル・バイ・リトル」などをありがたく頂きました。
 「高橋玄一郎全集」全六巻やご自分の著作と一緒に「大島博光記念館で活用していただければ光栄です」と言って『橋』の全号を寄贈下さいました。板橋詩人会の詩人たちの十五年の足跡と長岡昭四郎さんの詩への情熱が込められている貴重な五十二冊です。 
 (二〇一八年三月)

参考文献
長岡昭四郎『自分史』(自家版)(二〇一三年九月)
『橋』第一号 長岡昭四郎「追憶の詩」(一九八三年三月)
『かおす』一一〇号(二〇〇六年三月)

(『狼煙』85号 二〇一八年四月)
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