西條八十先生とランボオと
大島博光
わたしはここで、西條先生とランボオをめぐる、わたしの思い出を書くことから始めることになろう。
一九三〇年代の初頭、わたしは早稲田大学のフランス文学科の学生だった。西條八十教授のランボオやヴェルレーヌについての講義を聴いたことを、わたしは懐しく思い出す。先生は細身を瀟洒な洋服につつんだ、気鋭の教授だった。ランボオの初期詩篇「乳を探す女たち」 (『アルチュール・ランボオ研究』一三八頁参照)についての、その中に歌われている繊細微妙な感覚や夢心地などについての、先生の巧みな話術による講義を、半世紀以上もたったいまも、わたしは忘れないでいる。
その頃は、世界的な不況の暗い時代だった。中国への戦争が始まっていた。ある春の終り頃、先生は、われわれフランス文学科の十数名の学生を、まるで小学生の遠足のように、水上温泉へ引き連れて行ったことがある。夜は、詩人の主祭する、若者たちの楽しい酒宴となった。
また先生は、しばしば、大学の近くの喫茶店に学生たちをはべらせて、そこで講義をつづけた。この喫茶店での講義は永いこと、早稲田の名物として語りつがれたものである。
その頃、フランスでも日本でもランボオはブームであった。アラゴンの言葉をかりていえば、ランボオは世界を覆(おお)っていた。まだシュルレアリストであったアラゴンやエリュアールたちは、ランボオの詩篇「ジャンヌ・マリイの手」を、その機関誌に発表したりして、ランボオの反抗をうけつぐ詩運動を展開していた。日本でもランボオ関係の文献が数多く刊行されていた。多くの若い詩人たちが、新宿裏の酒場でランボオを論じ、ランボオを演じていた・・・
一九三四年、早稲田大学を卒業するにあたって、卒業論文にわたしも『ランボオ論』を書いた。わたしもランボオに心酔していたもののひとりだったからである。わたしの論文の審査主任が西條教授であった。幸いに、その論文によってわたしは先生の知遇を得て、卒業後、先生の主宰する詩誌『蝋人形』の編集を担当することになった。編集室は、当時、大久保駅近くの柏木にあった西條邸の茶の間だったから、その後八年の余を先生の近くで過すことになった。
先生はしばしば、朝の外出の前のほんの短かい時間、書斎でわたしを相手に、倦むことなくランボオ談議をされたことを、わたしは楽しく思い出す。「ランボオはさぞつきあいにくい男だったろうね」という先生の言葉が、いまもわたしの耳の底に残っている。その言葉は恐らく、ランボオがヴェルレーヌに呼ばれてパリに出てきて、しばらくカルティエ・ラタンに滞在していた頃、機嫌のわるいランボオが、パリの詩人たちに乱暴狼籍を働いたといわれるスキャンダルに関係していたように思われる。
先生は多忙だった。高名な詩人としての仕事、多くの雑誌への執筆、大学教授としての出講・・・ そのあいだにも、ランボオへのアプローチはやむことがなかった。彪大な数にのばる詩や歌を制作する、そのかたわらで・・・ 年ごとの避暑や折々の旅行などにも、先生はランボオ研究書の数冊をたずさえてゆくことを忘れなかった。
・・・いつも新しい文献を旅行先に持ち歩き、耽読していた。箱根の強羅ホテル、奈良の奈良ホテル、伊豆大仁の大仁ホテル、それから日光の梅屋敷旅館など、さまざまな楽しい想い出がそれらの文献をとりまいている。
(前掲書「あとがき」六六三頁)
西條先生ほど、ランボオに心惹かれ、生涯、その「謎」を追いつづけた人もめずらしい。しかも先生は、その資質、人生において、ランボオとはほとんど相反していた。先生はみずから「あとがき」のなかでこう吐露している。
この人の詩風はわたしのそれとは正反対である。
ランボオがわたしを惹付けたのは、なによりもその生涯だった。幼児のような純一な理想を抱き続け、その夢と苛酷な現実との接触に粉砕した彼の悲惨な一生、──つまり彼の人間像だった。
たしか一九四三年の暮、敗戦の色が濃くなり、雑誌の印刷用紙の配給がなくなり、『蝋人形』誌も休刊することになった。そして先生は、茨城の下館町の、旧家の別荘に疎開することになった。引っ越し騒ぎが落ちつくやいなや、書斎で、大島つむぎを着て、ランボオの研究書に向っている先生を、わたしは見た。
戦後、敗戦の混乱をくぐりぬけて、ふたたびランボオヘの追求はつづけられた。そうして優に四十年にわたって持続された驚異的な知的追求は、一九六七年、大冊七〇〇頁に及ぶ『アルチュール・ランボオ研究』(中央公論社)となって、実をむすんだのである。
ランボオほどさまざまな評価、相反するさまざまな解釈を与えられている詩人も少い。「生を変えよう」という反抗者と見る者、クローデルやダニエル・ロップスのように、ランボオをキリスト教の聖列に加えようとする者、ジャック・リヴィエールのように{実存主義風な立場から論ずる者、ローラン・ド・ルネヴィルのようにインド古代の教典『ウパニシャッド』などの思想を援用して、ランボオを神秘主義者に仕立てる者・・・ 百人百様と言ってもいい。『アルチュール・ランボオ研究』のなかで、先生はこれらのほとんどすべての論者批評家たちの言説を紹介し引用している。ルネヴィルの神秘主義論についてもかなり詳しく紹介したのち、その整合性、妥当性の欠如を指摘し批判している。さらにランボオの重要な詩篇は、原文対照に、みごとな訳詞が添えられていて、難解な詩を味わうのに大きな助けとなっている。
ランボオは廿歳(はたち)で早くもその詩的天才を放棄し、その後、エチオピアの砂漠へ脱出し、熱砂の地で貿易商人として悲惨な生と死をむかえることになる。このランボオ晩年の謎にも、多くのページがささげられている。
こうして『アルチュール・ランボオ研究』は、ランボオの詩と生についての百科全書ということができよう。
(詩人)
(「西條八十全集 第十五巻 アルチュール・ランボオ研究 月報15」)
大島博光
わたしはここで、西條先生とランボオをめぐる、わたしの思い出を書くことから始めることになろう。
一九三〇年代の初頭、わたしは早稲田大学のフランス文学科の学生だった。西條八十教授のランボオやヴェルレーヌについての講義を聴いたことを、わたしは懐しく思い出す。先生は細身を瀟洒な洋服につつんだ、気鋭の教授だった。ランボオの初期詩篇「乳を探す女たち」 (『アルチュール・ランボオ研究』一三八頁参照)についての、その中に歌われている繊細微妙な感覚や夢心地などについての、先生の巧みな話術による講義を、半世紀以上もたったいまも、わたしは忘れないでいる。
その頃は、世界的な不況の暗い時代だった。中国への戦争が始まっていた。ある春の終り頃、先生は、われわれフランス文学科の十数名の学生を、まるで小学生の遠足のように、水上温泉へ引き連れて行ったことがある。夜は、詩人の主祭する、若者たちの楽しい酒宴となった。
また先生は、しばしば、大学の近くの喫茶店に学生たちをはべらせて、そこで講義をつづけた。この喫茶店での講義は永いこと、早稲田の名物として語りつがれたものである。
その頃、フランスでも日本でもランボオはブームであった。アラゴンの言葉をかりていえば、ランボオは世界を覆(おお)っていた。まだシュルレアリストであったアラゴンやエリュアールたちは、ランボオの詩篇「ジャンヌ・マリイの手」を、その機関誌に発表したりして、ランボオの反抗をうけつぐ詩運動を展開していた。日本でもランボオ関係の文献が数多く刊行されていた。多くの若い詩人たちが、新宿裏の酒場でランボオを論じ、ランボオを演じていた・・・
一九三四年、早稲田大学を卒業するにあたって、卒業論文にわたしも『ランボオ論』を書いた。わたしもランボオに心酔していたもののひとりだったからである。わたしの論文の審査主任が西條教授であった。幸いに、その論文によってわたしは先生の知遇を得て、卒業後、先生の主宰する詩誌『蝋人形』の編集を担当することになった。編集室は、当時、大久保駅近くの柏木にあった西條邸の茶の間だったから、その後八年の余を先生の近くで過すことになった。
先生はしばしば、朝の外出の前のほんの短かい時間、書斎でわたしを相手に、倦むことなくランボオ談議をされたことを、わたしは楽しく思い出す。「ランボオはさぞつきあいにくい男だったろうね」という先生の言葉が、いまもわたしの耳の底に残っている。その言葉は恐らく、ランボオがヴェルレーヌに呼ばれてパリに出てきて、しばらくカルティエ・ラタンに滞在していた頃、機嫌のわるいランボオが、パリの詩人たちに乱暴狼籍を働いたといわれるスキャンダルに関係していたように思われる。
先生は多忙だった。高名な詩人としての仕事、多くの雑誌への執筆、大学教授としての出講・・・ そのあいだにも、ランボオへのアプローチはやむことがなかった。彪大な数にのばる詩や歌を制作する、そのかたわらで・・・ 年ごとの避暑や折々の旅行などにも、先生はランボオ研究書の数冊をたずさえてゆくことを忘れなかった。
・・・いつも新しい文献を旅行先に持ち歩き、耽読していた。箱根の強羅ホテル、奈良の奈良ホテル、伊豆大仁の大仁ホテル、それから日光の梅屋敷旅館など、さまざまな楽しい想い出がそれらの文献をとりまいている。
(前掲書「あとがき」六六三頁)
西條先生ほど、ランボオに心惹かれ、生涯、その「謎」を追いつづけた人もめずらしい。しかも先生は、その資質、人生において、ランボオとはほとんど相反していた。先生はみずから「あとがき」のなかでこう吐露している。
この人の詩風はわたしのそれとは正反対である。
ランボオがわたしを惹付けたのは、なによりもその生涯だった。幼児のような純一な理想を抱き続け、その夢と苛酷な現実との接触に粉砕した彼の悲惨な一生、──つまり彼の人間像だった。
たしか一九四三年の暮、敗戦の色が濃くなり、雑誌の印刷用紙の配給がなくなり、『蝋人形』誌も休刊することになった。そして先生は、茨城の下館町の、旧家の別荘に疎開することになった。引っ越し騒ぎが落ちつくやいなや、書斎で、大島つむぎを着て、ランボオの研究書に向っている先生を、わたしは見た。
戦後、敗戦の混乱をくぐりぬけて、ふたたびランボオヘの追求はつづけられた。そうして優に四十年にわたって持続された驚異的な知的追求は、一九六七年、大冊七〇〇頁に及ぶ『アルチュール・ランボオ研究』(中央公論社)となって、実をむすんだのである。
ランボオほどさまざまな評価、相反するさまざまな解釈を与えられている詩人も少い。「生を変えよう」という反抗者と見る者、クローデルやダニエル・ロップスのように、ランボオをキリスト教の聖列に加えようとする者、ジャック・リヴィエールのように{実存主義風な立場から論ずる者、ローラン・ド・ルネヴィルのようにインド古代の教典『ウパニシャッド』などの思想を援用して、ランボオを神秘主義者に仕立てる者・・・ 百人百様と言ってもいい。『アルチュール・ランボオ研究』のなかで、先生はこれらのほとんどすべての論者批評家たちの言説を紹介し引用している。ルネヴィルの神秘主義論についてもかなり詳しく紹介したのち、その整合性、妥当性の欠如を指摘し批判している。さらにランボオの重要な詩篇は、原文対照に、みごとな訳詞が添えられていて、難解な詩を味わうのに大きな助けとなっている。
ランボオは廿歳(はたち)で早くもその詩的天才を放棄し、その後、エチオピアの砂漠へ脱出し、熱砂の地で貿易商人として悲惨な生と死をむかえることになる。このランボオ晩年の謎にも、多くのページがささげられている。
こうして『アルチュール・ランボオ研究』は、ランボオの詩と生についての百科全書ということができよう。
(詩人)
(「西條八十全集 第十五巻 アルチュール・ランボオ研究 月報15」)
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