この詩には、一貫してアラゴンの実践的なレアリストの立場がつらぬかれている。
絵画を変えることは人間を変えることだ
この一行には、彼じしんが苦悩にみちて体験した自己変革の重みがある。彼じしんその自己変革をふくめての実践をとおして、自己の詩を新しい人間の歌、新しい世界の歌へと変えたのであった。絶えずおのれの限界を乗り越えて。そしてアラゴンは、
おお 限界を乗り越えてゆくひとよ
とピカソに呼びかける。まさしく二十世紀の二人の偉大な画家と詩人は、いずれも自己の限界を越えて、つねに新しい芸術に挑戦し、新しい芸術を創造しっづけたのである。
いまだかつて絵画において愛することについて
人間であることについて…
これほど気高く粘り強い宣言はなかった
欲望と悦楽の名を これほど大胆に
声高く叫んだ声はなかった
ピカソの絵画の本質とその意義を語った、これほど直哉明快なことばはない。愛がないがしろにされ、愛することがむつかしい時代、人間が忘れさられ、人間が矮小化される時代にあって、ピカソの絵画はまさに力強い愛の讃歌であり、楽天主義的な人間讃歌である。したがって、この人間的な叫びを、実存主義的な、あるいは形而上学的な「だらだらした長談義の宮殿」に閉じこめてはならないし、また「煙に巻いて」神秘化してはならない。
この詩で、アラゴンは九十歳のピカソを「若者」と呼んだが、それからまもない、一九七二年四月、ピカソは「若い画家」を描いている。これは恐らくピカソ最後の自画像であろう。それは、あらゆる複雑を通過した後の、きわめて単純な線で描かれている。イチジクの葉っぱをとっぱらった、生まなまとした「接吻」、あるいは「パイプをくゆらす男」「闘牛士」などのはてに、それは描かれた。「百歳になったらわたしも、あの北斎の言ったように、さっとふるったひと筆で、思いのままのものが描けるようになるだろう」そう言ったピカソの至芸の境地を、その枯淡飄逸の線のなかに見ることができよう。
(新日本新書『ピカソ』──「永遠の若者-アラゴンのピカソ讃歌」)
*テキスト
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