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詩人と死(下)  花岡脩

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下


(『蠟人形』一九四一年一〇月号)

夜景




 ラムボオの否定の見者は、われわれに於ては背定の見者となり、それは否定するために肯定する見者である。この二者のあひだに相違があるとすれば、それは時代の相違であり、時間の差異ではなかつた。芥川の死は肉體の死を希求し、山岸外史の死は肉體の死を超えて、精神の死のあることを強調した。しかしそれは何も偉大な發見ではない。詩人にとつては自明のことであり、文學のうへの文學者たる詩人の誇つていい所であらう。北條民雄の天才も、キリーロフやズヴイドリガイロフの自殺以上には出なかつたけれど、詩人の死は遥かにそれを超えてゐる。
 〝社會環境と自殺〟といふか。「制服の處女」の自殺はそれである。キリーロフの自殺はそのうへである。そして詩人の死はなほはるかにそのうへである。
 この後に於て、宰福の思想が再び語られるとすれば、それは地上のうへの世界におけるそれである。あるひは地下室のひとびとのそれである。ゆゑに、これらの人々の幸福への祈願は、恐ろしく不幸なものへの祈祷となつて、あたかも呪ふがごとく、あたかも身悶へるが如く、そしてさりげなく、人ごとのやうに、美しくも不氣味な詩となつて、讀む人の胸の茨を顫はすことであらう。
 囀る小鳥、野に咲く花、日溜りの蜥蜴、青い空はどこに消えていつたのか。眠れる瞳孔に、一瞬、それらのものへの追想が魚となつて飛びだすけれども、更に重い記憶が、呵責を埋め、懺悔を葬り盡したBODYの記憶が、カクテイルよりも鮮明なイメーヂが、それらの追憶の牧歌調を遮蔽してしまふことであらう。
 自然が母であつた幼年の日よ、蘇れ。
 自然を忘れ、人間の憎悪と愛とを歌つた少年の日よ、返つて來い。
 しかし、憎悪と愛とが所詮同一のものであり、矛盾が矛盾でなく、天と地が抱擁しあつた詩人の死に於て、人間の探求は、自然への帰依であつた。心理への潜入は、心理よりの超越であり、科學への依拠は科學の超克を意味するものであつた。そのことは、單なる人間への帰順でもなく、單なる自然への観入でもなかつたけれど、しかも尚ほ、それらとおなじきものであることを否めない。
 しからば死とは何であらう。ことに、死につつ喰ひ、歩みつつ眠るといふ詩人の死とは何であらう。詩人の死は、死の詩をもたらすことであつた。しかし死の詩が文字の詩となつ,たとき、詩人は死の詩の發生に於て、詩の生を喚起するのである。
 しかし、この生きた詩も、普通のやうには生きてゐない。それが出てゐるとすれば、死んだ詩のなかにのみ生きてゐることであらう。單に生を唄ひ、唯に自我を謳ひ、僅かに他我や愛を歌ふ詩人のなかには、それは、割れたる鈴より惨めな一個の物であらう。割れた鈴のおとは、ひびの入つた惨めな骨にのみ、さくさくと浸透することであらう。それは最早や歌へる言葉ではない。ましてや朗讀すべき文字ではない。ただ風のやうに、紙の隙間に潜みいつては燃え上る燐のやうなものである。
 朗讀の詩といふか。
 それがいかなるものであるかは、詩人の死が答えてくれるであらう。いや、死んだ詩人は、すでに、答へようともしない。ただ風鈴のやうに、風をうけては無意味に鳴つてゐるのみである。  一九四一・八・十六

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