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詩人と死(中)  花岡脩

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 ひしめく音がきこえるか。呟くやうに唄つてゐるのは、あれは詩人の歌であらうか。大陸の鳩が舞ひ、亜細亜の麦が生ふると叫んでゐるのであるが、あの聲はまことに荘重さうにきこえて來る。
 死のなかに、そして死を超えて、あの黝い岬に通ずる白い垣々たる道がある。それは意志のないやうにも見ゆる實踐である。永遠の鎖であるとともに、瞬間の流れのやうに果敢ない。死を通してはじめて生があり、生のうへに實踐が、それは黴のやうに生れるのであらうか。だとすれば詩人の詩は、詩人の死を前提とするものであらう。
 死をまへにして、しかも必然の、予定された死をまへにして、一九一六年以來、多くの詩人は、車輪の下の肉片のやうに分裂し、飛散した。ああ、それは何と美しいデフォルマションであり、何んなに壮麗な舞踏であつたらう。狂人は、炎々と燃えあがる焔を見てゐるうちに狂喜の發作を忘れるらしい。狂氣の詩人達は、デフルマションのなかに、その狂気をも流してしまつた。暗澹たる洪水の狼籍よ、金のスプウンのうへの奇怪な青じろい光芒よ、その光芒の照らし出したはてに、若き詩人らの生ける屍が動きはじめたのである。
 詩人はもはや死んでゐる。生きるために死んでゐる。単に生きてゐる詩人の幸福よ。火鉢の尻のやうに、どつしりと、それは永劫の座に坐つてゐる。この美しい鎮坐の神よ。
 過ぎ去るものの美しさよ。瞬間の永遠のなかに聳える法城のある、記憶の激しさよ。
 法城のある風景は古典的なことであらうか。それとも浪漫の色濃い曙の風情であらうか。いやこの風景こそ、暗鬱な、光輝ある、無の彩色であり、無韻の時計塔であらう。この方形の圓筒のなかに、リズムのない死の詩が語られ、心理もない、生理もない、レトルトのなかのアヒルの孵化もない、ただポエジイの淡い島影のみが、風のやうに、太陽の瓶のやうに過ぎ去るのみである。
 ポエジイの崩壊であらうか。
 ポエジイの再燃焼であらうか。
 しかし、崩壊の名はすでに語られ、再燃焼の黎明は世界終焉の太陽のものであつた。
 何が残るといふのか。ただ死の無意味な口蓋のみが、穴のやうにひらかれ、ただ詩の無意味な残骸のみが、生ける獣のやうに、厳かに刻みつけられる。それは杖も持たない盲人が、東天紅の暗い森のドアを開けにくるやうな、そのやうに鋭く鈍い生である。既に死は生であつたが、それに盲人の生でありしかるがゆえに「見者」の生である。
 ラムボオの〝純粋な沈黙〟は、ラムボオが見者になつた直後に始まるのである。商人になつたラムボオは杖をひかぬ盲人であつたらうか。しかしわれわれは尚ほ生きようと希ふ。捨てられた杖を手許にさぐり寄せよう……。とそれは何故であらうか。
(つづく)

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