fc2ブログ

詩人と死(上)  花岡脩

ここでは、「詩人と死(上)  花岡脩」 に関する記事を紹介しています。



 詩人と死
                           花岡脩 

 そんな花やかな詩は何處を探しても無い。だから、私は冷然と、鐵の響きの籠つた詩を語り、凍つた白魚のやうな文字の罐詰を切らうと思ふ。
 生きることがそんなに幸福であるとでもいふのか。彼等華やかな詩人達よ。だと言つて、死ぬことが幸福だなどと歌ふ詩人は、世にはあるまい。
 生きることがそんなに淋しいのか。そうして寂さのなかの、愛といふ他愛ない腐木の、何といふ傲慢であらう。あるひは、足に連る鎖のおとと、呵責の枷が、懺悔の雑吊を漂白したことのない、非實在《ノンアートル》の無意味な眩耀と…。
 ナイフとフォークの戦争には、雀や鳩の墜死であつたけれど、これらの生の風景のなかに、死の影の片鱗をだに見たものがあつたであらうか。(よしそれなれば戦場で果てよう)
 否定するために肯定するのが、自己にとつて止むを得ぬ生き方である、といふのは、愛することをすら人は學ばねばならないといふことでもある。されば、死ぬために生きるのが、自己の詩であるといふことが言ひ得ようか。宇宙を呑んで自己は活き、自己の時間のなかにその時代が生き、過去と未來とを含めての歴史が息づいているものとすれば、生きてゐることは、同時に、死んでゐることを意味するのである。だとすれば、神話は自己の胎内で蠕動し、他に對しては、すべての否定が行はれるであらう。而してすべてを否定することは、同時に、すべてを含む自己をも否定することであり、ここに吾々のDADAの暗黒の道を回顧することが可能であらう。
 愛を知り始めたとき、詩人はすべての愛を失ふことになる。そして凡ての愛を捨てたとき、愛は再び蘇るのである。而かもその愛たるや、決して地上の愛ではなかつたのである。それは火となつて憎悪にも等しく、水となつては骨に溜る花火にも等しい。
 詩人はこの火を、あだかも戀人のやうに歌ひ、この水を、あたかも宿敵のやうに噴く。そして人々は、初めて、闇のなかに新しい言葉が、心臓音のない植物の聲が、而かも痙攣的な身振りと焼きつくやうな道化さとを伴つて、呟かれるのを聞くことであらう。つまり、憎悪の狂乱が舞はず、カーニバルの唇が色褪せ、すべてが凍つてしまつた廃墟のなかに、しかも烈々と燃ゆる火を抱いて詩人は、はじめて眼たる目を開き、ひらいた目を閉ざし感覚もない、知覚もない、悟性も感性もない死のなかに、坐つた脚で旗のやうに立ちあがるとき、坐つた脚からはグルーミーな愛の光耀が、なびける旗からは吃つた道化の華が、ヒュウモアの狂つた算盤が、咲く星となつて鏤められることであらう。
 惡の華は既に萎へ、ただ、溶暗の古城の窓近く、燭台の幽かな光に、シルエットとなつて映ゆる妖婆のうしろ姿でしかない。この古典的なニイチェのローソクの灯よ。しかもその赫ひは影よりも大きい。詩人への偉大な投影であつたのである。
(つづく)

(『蠟人形』一九四一年一〇月号)
関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/4966-3bece1d0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック