アラカン断章
──ビルマにて──
花岡脩
★
銀色の頸飾をかけたアラカンの子供が、大地にこぼれた豆の粒をひとつひとつ拾つて歩く。こんな単純な風景が私を歡ばせる。
擴げられた青いバナナの葉の下で、これらの赤い粒が何と輝くことであらう!まるで新奇な謎の宝石のやうに。
★
私は雨を踏んで歩く。素足のあなうらに何といふ雨の暖かさであらう。降る雨は容赦なく私の眼にも沁みるのに……。
降つて溜つた、まだ目さへ見えぬ雨の胎児を、その者の体温ででもあるかのやうに、暖めゆく大地。この熱帶の雨の季節は、異邦人の私には不思議に思へてならぬ。それにここでは四季を通じて、蛍が深い夜のなかを幻のやうに飛んでゐるのだ。
★
私はもう永いこと離れてゐるふるさとの流れのほとりに夢の手を洗ふ。私の掌のなかにはふたつの純粋な流れが、母指の前端へ、それから白い正午の海へ、數へきれぬ運命の皺を刻み、注いでゐる──
笑ひさざめく藪と子供たちを過ぎ、五月の風の渡る橋をくぐり、つぶらなる果實を洗ひ、みづからは酸い果汁に濡れながら、眠りの土手さへ静かに揺りおこす、あの慈愛にみちた母の手をのぼり、夜の銀河につづいてゐる流れ。
荒れた街と違い野の果てをつないで、虚ろな栄光のやうに輝く廢墟の塔を、その聴こえぬつぶやきで目醒ましながら、みづからは螺旋の階段を登つてゆく、青やかにも深い流れ。
私はそれらの風景を湛へるやうに眺めてゐる。──歴史の流れなどといふものはもうないのだ。さかのぼる舟も見られないのだ。すべて美しく、熱に透いた䖸のやうに、そのままなる悲哀に帰へり、しかもこよなく高い嶮しさを背に負ふて、舟さへも浮べないふたつの流れよ、海に注げ、空に還れ!
★
通じない言葉の深淵を悲しんではならぬ。祖國の詩人よ。
言語における孤獨絶対の美しさ。(『非在《ノタイエ》』と話すアラカン印度の言語)美しき沈黙を詩人の美しき言葉につなぎとめねばならぬ。(黄金の壷は何處の國に埋れたのであらう)
われらは祖国のために、通じない新しい貨幣を投げるのだ。
祖国の詩人よ、
これら民族の戦ひのさなかにあつて、君たちの彷徨とはしかし何であらう。君たちの歩む黒い土、君たちの掌のなかの黒い貨幣、君たちの架空の民族たちを、君たちの神に返せ。
ああしかし、彷徨とは一體何であらう。燈火もない原始の窓が、君の凹んだ肩のうへで翻へるのか。
今日もまたアラカン・ビルマの回教徒は耳を蔽ふ拝礼のために、部落に近い山を越えるであらう……
★
君の眠りは花瓶の真空のやうに無限に拡がつた。それは極限の覚醒《めざめ》よりも一そう光りに満ちみちてゐた。影はなかつた──影は死んでしまつたのではないけれど、それよりも光りがあまりにも影に似てゐたからである。
君はたつた今、大きな覚醒のさなかで、不思議な言葉を語つた。そのとき君は統一者であつたのだ。あのやうな君の影から、光のやうに、どうしてあのやうな言葉が流れ出たのであらうか。憎悪に近いそれは一種の速度であつた。時間も恐れて停るやうな……。 いま君の眠りの土手のうへを、君の統一者は遠のいて行つた。君の部下たちはそしてもう一つの統一のなかに溶けこんでゐた。あたかも君の眠りが光りにみちてゐたやうに、この美しい統一は塊りのやうに暗かつたけれど……知らぬ間に道は通じてゐた。悪魔でさへも知らなかつた道が──
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神が何であるか、私はもう知らうなどとは思はぬ。神は汝、神は汝ら、神は汝らの汝である。
ああ、私と精神を分けあつたひとつのもの、すべてのものの距離の遠さよ!私は嘗つて汝を抱いたこともあつたのに。汝は私の腕のなかで眠つたこともあつたのに。汝は私の眼にすべてを見せてくれたのに──汝の肉體をさへも固くするこの距りとは一體何であらう。しかも私には聞える──光りつつ雲の乳房に飛んでゆくエネルギイ。
★
いまやすべての鐵鎖を断ち切るのだ!すべての線を拋つのだ。ああ、鋭利なるかな、南の斧。
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みどりの雨のなかに、樺色の砲は鳴つてゐる。
焼きすてよ、絶望を、死にかけた過去を、分離の過程を。恐怖の影をすべて呑み、愛惜の襞をすべて脱ぎすて、鳶色と轟く砲聲の時間に聴け。
★
詩の精神は本質的に不遜の精神である。不敗の魂である。
すべての街の、すべての海の、きらめく太陽の、ひとりみづからを奏づる孤島である。
(『蠟人形』一九四三年第十一号〈十二月号〉)
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