大島博光が書簡の写し「武井脩はとてもいい詩を書いていました」のなかで「松代だより」と称していた手紙が見つかりました。
やはり長谷川健氏からの手紙で、自分に赤紙が来て招集されたこと、武井脩の遺稿のことを書いています。
「稜線」とは鈴木初江が出していた同人誌『稜線』55号1995年夏号に<大島博光「老いたるオルフェの歌」出版を祝う会>の記事が掲載されていますので、この雑誌のことでしょう。
毎日暑い日が続いていますが、如何お過ごしですか。先日は「早稲田学報」「稜線」をありがとうございました。詩集出版祝賀会は(近ければ出席したかったけれど)鈴木、高畠、城氏たち大勢の心のこもったよい会だったようで嬉しく思いました。
学報の戦後五〇年特集はワセダ時代を追想させてくれ、感慨深く読みました。
戦場へ行く者、送る者。そして、昭和十九年、とうとう私にも赤紙が来て「いよいよ、長谷川君を戦場へ送らなければならないか」と山内先生は別れにボードレールの「悪の華」(クルニ版)を下さった。生きがての時代だった。
最後の髪(ささやかな抵抗だったか)を切って出征したことを遠い記憶の中に思い出します。髪を切るとは、悲しくも決意のいることだった。
汽車が通ってゆく。闇のなかにひとつらなりの記憶のような灯をともして。私の切られた髪が流れてゆくよ。(武井脩)
武井脩の遺稿(きけわだつみのこえ)を読んでいたら、突然、大島博光という名に出会いました。夢の中で五十年前の大兄に会ったような、荒寥とした東京の街なかで出会ったような、妙な気持ちがしました。
酔いどれて 通り過ぎて行く
夜よりも暗い、夜の中を
*
人間の中心とは何であらう。一体どこにあるのであらう。大島博光氏は東京で彷徨ふであらうし、田口は大学の講義をさぼって病院へ通ふであらうし、新沼は酒樽の大きな奴の蔭で、その妻とフランスの話などしてゐるであらう。中尾はトーチカの中だ。西田哲学はもう読んで居るまい。そして俺は、俺は口をあけて馬体検査を見てゐる。見事な馬脚だ!
(武井脩 入営後の覚書より)
おそらく、武井脩は生前、大島博光氏のファンであったろうが、 それにしても、大島博光の名は世にとどろいていたのだ。
一九九五・八・一八
信州 松代町一四八六
長谷川健
東京 三鷹
大島博光様
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