解説(第一巻)
アラゴンは、一八九七年十月三日、私生児としてパリに生まれる。母親はスキャンダルとなることを恐れて、アラゴンを戸籍上弟として登録する。一九〇〇年、母親は凱旋門に近いカルノー通りに下宿屋をひらき、外国人、とくに外国人女性がよく出入りする。一九〇四年には、下宿を売りはらって、家族はパリ西郊ヌーイのサン・ピエル街に移る。母親の家系がイタリア系の貴族につながるという伝説とは逆に、生活はつつましいものだった。アラゴンはサン・ピエル街のカトリックの私立小学校の二学年末に、作文の一等賞として、パレスの文集をもらい、大いにバレスの影響をうける。そのほか、ディケンス、ゴリキー、スタンダールなどを多読する。
一九一五年、二回目のバカローレア(大学入学資格)をパスして、ソルボンヌで医学の勉強を始める。しかし、静かな勉学生活をつづけることを時代が許さなかった。第一次世界大戦が、すでに一九一四年に勃発していたからである。
一九一七年、二十歳のアラゴンは動員されて、ヴァル・ド・グラース(軍医学校)にはいる。そこでアンドレ・ブルトンに出会う。この二人の若者は、マラルメ、ランボー、ロートレアモン、アポリネールなど、その頃まだあまり知られなかった詩人たちにたいする共通の支持・傾倒によって友情を深めることになる。一九一九年、フィリップ・スーポーを加えて、かれらは「文学」誌を刊行し、一九二〇年にはアラゴンの最初の詩集『祝祭の火』が、ピカソのデッサンに飾られて出版される。
第一次大戦が終わると、不安と絶望と混乱の時代がやってくる。若い詩人たちは古いブルジョワ社会のもろもろの価値の崩壊・古い文化芸術の破産を感じとる。一九一六年以来、スイスでダダを提唱していたルーマニアの詩人トリスタン・ツアラをパリに迎えて、「文学」の同人たちによるダダの運動が始まる。ダダはひとつの芸術運動というよりは、第一次大戦後の社会的文化的混乱、その不安と絶望のなかからあげられた破壊的な反抗の叫びであり、エスプリの運動であったということができる。それは古いモラルの否定と、古い芸術への反抗をめざしながら、ただ観念的な否定をこととして、精神の状態《エタ・ダーム》を爆発的に表現するにとどまっていた。ダダは一九二一年に終わり、そのあとに、ダダの全的否定を克服し、乗り越えて、新しい現実を追究し創造しようとするシュルレアリスムの運動がはじまる。シュルレアリストたちは、突飛な夢、気違いじみた夢想、イメージの自由な結合などをとおして、すばらしさ《メルヴニイユ》、客観的偶然、無限、未知へ到達しようとする。それには、意識や批評的精神やノルマルな知覚など、あらゆる理性の制約をとっぱらって、無意識の流露や感覚の錯乱に身をまかさなければならない。こうして自動記述法が発明され、催眠術による眠りの状態においてイメージを捕える実験がおこなわれる。一九二四年十月、機関誌「シュルレアリスム革命」の第一号が刊行され、一九三〇年には「革命に奉仕するシュルレアリスム」と改名して一九三三年まで続刊される。──このシュルレアリスム連動、シュルレアリストたちにたいするアラゴンの根本的な批判、あるいは自己批判は、『現実に還えれ』のなかで、激しい言葉によって展開されており、その痛烈な指摘はこんにちなおその意義と有効性を失ってはいない。
(つづく)
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