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レーニンが指摘したコミューンの第二のあやまりは、ヴェルサイユ派をおおいに助けた待機主義の立場をとったことで、それは三月一八日の夕方からあらわれた。ヴェルサイユ派が即座に悩まされることになっていたら、かれらは困難な立場におかれただろう。
パリの軍事力は、はじめヴェルサイユ派のそれよりすぐれていたが、そればかりではなくティエールが逃亡したため、パリの軍隊の士気は高かった。一方、ヴェルサイユ軍は士気が落ち、潰走寸前にあった。
この点については、知られているように、はじめ国民軍中央委員会がベルジュレ・デュヴァル、ウード各将軍にゆだねたパリ軍事指導部は、四月二日、クリュズレ将軍に委任された。同将軍は波瀾に富んだ経歴の持主で、パリにあらわれたのは一八七一年三月一八日の革命のあとだった。
クリュズレは一貫した軍事政策を立案し、実行する能力のないことが明らかになった。コミューンは軍事情勢を掌握できなかった。そこで軍の代表は四月末に交代させられた。
クリュズレのあとをついだロッセルはフランスにつくすため、バゼール指導下のフランス軍が包囲されたメッスを脱出してきた軍人だった。この愛国将校はコミューンのなかになによりも民族的性格とボルドー議会の降伏にたいする抗議、また戦争継続の可能性をみていた。ロッセル大佐は古典的タイブの将校で、自分の指揮下にある軍隊、普通の徴兵法に従ってきた兵士ではなく、革命家からなる軍隊の特別な性格を理解しなかった。
ヴェルサイユ軍がイッシー砦を占領したあと、五月九日にロッセルは辞任し、軍事組織がどうあるべきかを知らない老革命家、ドレクリューズが交代した。
この三人の軍事代表任命は、自己の運命がかかっている軍事行動をコミューンが重視していなかったことを明らかにしている。
しかし、パリ・コミューンの弱さをいまとり上げても、コミューン戦士がそのためにたたかい、死んでいった事業の正当性と偉大さはゆるがない。
「コミューンは勝つことができたか」という問題を出す人びとには、つぎのように答えることができる。パリの労働者がティエールの挑発にたいして立ち上がらず、武装解除され、たたかわずに敗れ去ったなら、労働運動はこの戦闘なしの降伏の結果、はるかに大きな苦難に見まわれただろう、と。
ブルジョア階級はこの情勢から論拠を引きだし、ことごとに、その水遠の支配を叫びたて、どんな社会勢力もかれらに代わって国の政治を指導することはできないと力説しただろう。
ティエールの挑発に直面したパリの動労者たちは、たたかう以外になかったのである。
それゆえはじめはパリの人びとに警告を発したカール・マルクスは、たたかって短期間とはいえ権力をにぎり、新しい型の革命、社会主義革命の時代をひらいたコミューン戦士の英雄主義がかれに呼び起こした賛嘆の気持をかくさなかったのである。
(つづく)
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