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ジャック・デュクロ「パリ・コミューンの基本的特徴」 (5) 第一のあやまり

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(『世界政治資料』1971.7.10)

公園


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 所有主が逃げずに残っていた他のいくつかの企業にたいしても同じような措置をとることができたし、とるべきだったことはまちがいない。しかし、コミューンは七二日間しかつづかず、その間、コミューンはヴェルサイユ派にたいしてみずからを守らねばならなかった。
 公益質屋、私設職業紹介所、官僚制度の廃止、夜間労働の禁止、人民による役人の選挙のような措置は、コミューンの社会的、民主的配慮を示し、その実行力を明らかにしている。
 またプロレタリアートのディクタトゥーラの政府として活動したコミューンは、各種の支配機関によってブルジョアジーの権力を粉砕しようと努力し、常備軍は武装した人民に、所有者に仕える警察は新しい安全保障機関に、聖職者は、国家と教会を分離した地位に、「独立」してはいるが、資本にまったく忠実な裁判所は、人民に選挙され、人民に責任を負い、人民の手で解任される新しい司法機関にかえられた。これらの措置は、変化への深い意思をあらわしていた。問題はたんに政治家がかわることではなかった。
 歴史の舞台の第一線を占める新しい社会階級がフランスの首都の運命に責任を負い、すべての革命はパリから来ると考えた。そしてついには全国の運命をその肩にになったであろう。
 しかし、パリでの労働者の政府樹立が地方に反響をよび、いくつかの都市では人民がパリ市民と同じことをやろうとこころみはしたが、この運動は急速に粉砕された。首都は戦いのなかで孤立した。英雄主義をもってたたかいつづけたけれども、弱さをもっていたのである。
 この点についてレーニンは、パリのプロレタリアートがおかした二つのあやまりのため、パリ・コミューンが弱まったことを強調している。つまり、パリのプロレタリアートは収奪者を収奪するという不可欠な事業遂行の中途で立ちどまり、敵にたいして、あまりにも寛大さを示した。そのためかれらは、ヴェルサイユ派にたいする軍事的追撃をまったく必要重大事とは考えなかったのである。
 第一のあやまりの典型的な例は、フランス銀行にたいしてとった態度にある。当時、私営だったこの銀行は特別の定款と、紙幣発行の特権をもち、指導者はロスチャイルド、マレ、その他の財界の大物だった。
 国民軍中央委員会がパリ市庁に移った翌々日、その二人の代表がフランス銀行総裁ルーラン氏と会見した。返済される金額をパリ市に前貨しすることができるとのべた総裁は、こんなに気安い革命家に会ったことに驚いたにちがいない。
 ついでコミューンの一員で、第六区選出議員の市民ベスレーがフランス銀行の要職についた。しかし銀行のほんとうの主人は副総裁のド・プロウク氏で、かれはコミューンに少額づつ資金を提供すると同時に、ヴェルサイユの裏切者どもに手形の裏書きをしていた。
 ヴェルサイユ政府は、革命パリの中心部でフランスの富の一種の不可侵の逃げ場となっていたフランス銀行の介入のおかげで、債務を処理していた、ということになる。
 パリのコミューン戦士たちは、この銀行をおさえて、ヴェルサイユ政府への信用貸しを断ち切り、ティエールを恐るべき困難に直面させ、コミューンの行動手段を大幅に拡大できることを理解しなかった。そしてコミューンは自らの必要をみたすための資金を要求するだけで満足していたのである。
 それに、要求した資金はきわめて正確に計算されていた。コミューンの側ではどろぼうといった非難をちょっとでも受けないように配慮していたのである。しかし、この細心な会計精神は、ティエールの挑発から生まれた革命の要求とは一致しなかった。
 当時の社会主義者はマルクス主義の理論に啓発されていなかったので、銀行、まず第一にフランス銀行を攻撃して、どんな利益があるのかわからなかった。この銀行は銀行中の銀行で、これを攻撃すれば、資本家と、かれらに仕えるヴェルサイユ政府に、きびしい打撃をあたえるはずだった。
(つづく)
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