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その上、一八六九年に労働者のはげしい闘争がおこった。
六月一六日にロワール県リカマリーで軍隊がスト中の労働者に発砲し、死者一三人、負傷者九人がでた。
一〇月七日、アヴェイロン県オーバンで同様の事件がおき、炭鉱労働者一四人が殺され、二〇人が負傷した。陸相ル・ブーフ将軍は、発砲命令をだした将校に勲章をさずけた。
オーバンの虐殺についてヴィクトル・ユーゴーが詩を書いたことは知られている。その一節にこう書かれている。
おれたちは、ささやかな要求をした/ほんの少し仕事をへらし、ほんの少し賃金を上げることを/そしてなにがあたえられたか、鉄砲玉だ
そのほかのところでもストライキがおこり、ひじょうに長期にわたるものが多かった。たとえばヴィエンヌの毛織工場、リヨンの絹糸工場、ペンキ用ブラシ製造工場の労働者、麻布の織工、金泥工、パリの皮革製品工場の労働者のストライキをあげることができる。
一八七〇年初頭の一月一九日、活動家の労働者アッシ──のちのコミューン戦士──の解雇につづいて、シュネーデルのル・クルーゾー工場の労働者たちがストにはいり、二日後四〇〇〇人の軍隊が現場に送られた。
二月二五日、労働者たちは要求をかちとることなく職場に復帰しなければならなかった。
知られているとおり、第一インタナショナルのなかで職業別、あるいは全職業にわたる地域支部はインタナショナル総評議会に直接結びついていた。このため、全国指導部というものがなかったが、一八七〇年初頭、インタナショナルはパリ、マルセイユ、リヨン、ルーアンに四つのインタナショナル連合体をつくり、全国連盟創設の考えがしだいにひろがっていった。
しかし第二帝政はこの組織に弾圧を強めた。一八七〇年三月二〇日、インタナショナルのパリ・ビューローは、司法当局の手で有罪に処されたが、それでも、賛成票が圧倒的多数を占めた一八七〇年五月八日の人民投票への反対運動にパリ・ビューローが参加することを阻止できなかった。
一八七〇年五月の皇帝の人民投票で賛成票が多数だったにしても、パリとセーヌ県では反対票が多数を占めた。
ナポレオン三世は足もとがくずれるのを感じていた。人民投票の成功にもかかわらず、帝政の体制は安泰ではなかった。インタナショナルの第三回裁判の少しあとで、ビスマルク──かれはオーストリアを破ったあと、フランスを屈服させようと望んでいた――に巧みにあやつられたナポレオン三世は、国内での立場を強めるために必要とかれには思われた戦争の冒険に引き入れられた。
この戦争はまたたく間にスダンの降伏、帝政の崩壊、九月四日の共和制宣言という結果をもたらした。
首都ではパリの代議士たちが国防政府をつくり、その首脳に反動将軍トロシューをつけた。
(つづく)
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