知られているように、前世紀の六〇年代の初頭いらい、フランスの一部産業家に接近したナポレオン三世は困難な立場に立っていた。英仏通商条約の調印で、新しい関税のもとでイギリス商品がフランスにはいりこみ、産業資本家たちはイギリスとの競争に立ち向かうため、製品の値下げを余儀なくされたのだった。
このような状況のなかで、一八五一年一二月二日(ルイ・ナポレオンがクーデタをおこした日──編注)の人物は左翼に支持をもとめ、勤労者を《誘いこむ》政策を展開した。
帝政政府の宣伝は、一八四八年六月の流血の弾圧に責任ある諸政党にたいして労働者をけしかけ、そうした空気のなかで、リヨンの産業家となった旧サン=シモン主義者は、なんのためらいもなく、一八六二年のロンドン万国博に労働者代表を送ることを提案した。
帝政政府はこの提案に同意し、また、暴力行為をともなわない限りという条件づきで、団結を禁じた刑法を廃止した。しかし同時に、労働の自由にたいする刑罰はひどくなった。
周知のように、ナポレオン三世は一八六四年五月、団結権を禁じた一七九一年のル・シャプリエ法を廃止したが、労働者の要求する集会の権利を認めたのではなかった。つづいて一八六八年三月、帝政政府は、裁判所がインタナショナルの第一回裁判で判決をくだした一〇日後に、労働組合会議《シャンブル・サンディカル》の存在を法的に認めた。
結局、ナポレオン三世が望んだのは自己の体制に労働者階級を組み込むことだった。このことは、同じような目的で今日おこなわれているある種のくわだてが、実はきわめて古い性格のものであることを知らせてくれる。
ロンドンに旅行した労働者たちは数多くの要求をもって帰ってきた。そして代表の一部は一八六四年にふたたびロンドンに行き、第一インタナショナル創立大会に参加した。
カール・マルクスが起草した創立宣言で、第一インタナショナルは労働者階級の手による政治的な権力獲得の問題を提起していた。
しかし、それだけでは、多くの労働者ばかりか、第一インタナショナルに属して社会主義をとなえる労働者にも影響をおよぼしていたまったく別の考え方を消滅させはしなかった。
帝政の体制に労働者階級を組み込むくわだては、ナポレオン三世が期待したような結果をもたらさなかった。
一八六八年三月、インタナショナルのパリ組織は当局の追及を受け、指導者一五人は、許可されていない団体に属しているとして一〇〇フランの罰金刑に処された。同時にインタナショタルの支部は解散を命じられた。
インタナショナルの活動家たちはこの有罪判決をものともせず、九人のメンバーからなる新しい委員会がつくられた。
一八六八年五月、かれらはまたも追及され、インタナショナルは解散させられた。しかしインタナショナルの人びとは活動をつづけた。かれらは種々な労働者団体を結集して連合委員会をつくった。この連合委員会は、いわば、インタナショナルの活動をひきつぐものであった。
こうしたことから、第二帝政は労働者階級をおそれ、これを主要な敵とみなした。
(つづく)
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