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ジョルジュ・コニョ「パリ・コミューンの歴史的地位」 10(労働者の党)

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(『世界政治資料』1971.7.10)

庭園



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 コミューンは崩壊した。その崩壊は多くの誤ちによって促進された。たとえば、収奪者の収奪をめざす闘争に一貫性がなかったことや、フランス銀行にたいしブルードン主義者が迷信に近い尊敬を抱いていたこと、敵にたいして率先して軍事作戦を展開することを放棄したこと、それに関連して軍事問題に若干の軽率さがあったこと、最後に、長いあいだもっとも純朴なお人よしにも等しかった敵にたいする寛大さがあったことなどである。パリ・コミューンは、自衛することを知らなかった労働者権力であって、一八七一年の社会主義者たちを継承する者にとっては忘れがたい教訓である。しかし、よくいわれているように、プロレタリアートのパリが崩壊したことでブルジョアジーが歓喜したことは、ひとえにかれらの歴史的近視眼を証明するものであった。ティエールは「これで社会主義はだめになった、しかも永速に」といったが、かれの予言はあやまっていた。
 歳月をへて、労働運動はふたたびフランスに生まれ、また同時にすべての資本主義国で強化されることになる。フランスをふくめて、いたるところで労働運動のなかで躍進したのはマルクスの科学的社会主義であった。フランスでは、かつては無政府主義に傾いていたゲードやラファルグがマルクス主義の陣営にうつり、マルクスの個人的援助をえてフランス労働者党を創立した。この討論会の小委員会の一つで、マルクス、エンゲルス、エドゥアール・ヴァイアン、シャルル・ロンゲ、その他の人びとが、労働者の党――それは一八七一年のパリの革命家たちには欠けていた――の絶対的必要性にかんして、コミューンの教訓を引き出したやり方について、いっそう深めるようにしたらどうか、とわれわれは考えている。アンドリューもシャルル・ロンゲのいったように、パリの労働者には勇敢さと大胆さがあったが、それをもってしても確固とした政治指導、適確な組織、明確な綱領のなかったことを補うことはできなかった。
 プルードン主義の伝統による非政治主義と、自由主義的ブルジョア、小ブルジョア民主主義者、またブランキ派自らも表明した超階級的な共和主義の間に立って、革命的労働者は、一八七〇年の直前にかれら自らの組織、その階級に属する組織の必要を、まだ漠然とではあるが、さだめし感じていたにちがいない。しかし、この組織はつくられなかった。一八七一年にプロレタリアートは、有利な状況のもとで権力をかちとるほどかなり成長しているように見えたが、まだかちとった権力をがっちりと組織し、それを維持できるほど十分には成長していなかった。プロレタリアートは十分な意識をもっていなかった。このことは、思想的混乱があって、コミューン評議会のなかにグループやさらに小さいグループがたくさんつくられたり、政治的立場について動揺がおこったことでよくわかる。オルミ・フランケル、ヴァルラン、セライエなど、だれでも明確な革命的理論をもっていなかった。
 それゆえ、自らは「コミューンの墓」を建てることを主張しながら、われわれが党の問題を提起することは時代錯誤だといってやめさせようとした人たちには気に入るまいが、労働者党の問題が起されたわけである。

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