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ジョルジュ・コニョ「パリ・コミューンの歴史的地位」 9(血の週間)

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(『世界政治資料』1971.7.10)

女神







 テロの狂宴がどのようなものであったかは、よく知られている。
 今日ここで討論会が開かれ、多数の参加者が称賛とひじょうな敬意をこめてコミューンを論じているが、このリュクサンブール宮は血の週間には、敗北したコミューン戦士の屠殺所であった。ここにヴェルサイユ軍の将軍ド・シッセーは、五月二四日から司令部をかまえた。かれの部下は隣にあるみごとな庭園で容枚なく虐殺をおこない、国民軍陸軍少尉である舞台装置家モーリス・ド・モンプティは、ここで他の幾百という解放の戦士とともに殺された。ここにごく近いパンテオンで、ド・シッセーはジャン・バティスト・ミリエールが公文書偽造について閣僚ジュール・ファーヴルの罪を証明したことは許しがたいとして、ミリエールを裁判なしに処刑することを命じた。中庭も、小リュクサンブール宮の地下室も、捕虜で充満していた。五月二五日、かれらは憲兵隊の一将校が葉巻をくわえて我判長席についている軍法会議所の前を、ものすごい速さで並んで歩かされ、ついで芝生のうえの木陰のところで集団ごとに銃殺された。この同じ庭園のバラックに収容されていた負傷者もすべて殺された。医師トニ・モアランのようにかれらの世話をしてきた医師たちも同様に殺された。死体は花壇の中央に積みあげられ、モンパルナス墓地に運んでそこにいそいで掘られた巨大な穴に埋められた。
 ケ・ド・ベルシの小さな隠れ家で、コミューンの詩人ジャン・バチスト・クレマンは、弾圧下のパリをつぎのようにうたった。

 密偵や憲兵はいざ知らず
 道に見えるものは
 ただ、涙ぐんださびしい老人
 そして寡婦と孤児

 パリは窮乏にうめき
 幸ある者もふるえおののき
 何かといえば軍法会議
 舗道は一面血にぬれる
 
 だれかれなしに追跡し
 鎖につなぎ、銃殺する
 娘によりそう母親
 老人に抱かれた幼な子までも

 血の週間、サトリ(軍隊倉庫で一〇〇〇人余の囚人が虐待、殺された──編注)や廃船(二五隻の廃船に二万人がつめこまれ虐待、殺された──編注)、またニュー・カレドニアでの人知れぬ虐殺(南太平洋の植民地に三〇〇〇余人が流刑にされた──編注)は、自らの特権を守るためにはブルジョアジーはどんなことでもしようとすることを想いおこさせる。その後、ファシズムの蛮行がおこなわれたし、今日では、インドシナにおけるアメリカ侵略者の名状しがたい残虐行為、アメリカ国内において黒人活動家と抗議に立ち上がった学生の虐殺、北アイルランドの貧窮者の運動にたいする血の弾圧、南アフリカ、中東、スペイン、ギリシャで積み重ねられている反革命と帝国主義の大罪、そしてその他多くの現在の出来事は、反動がどんな罪でも平気で犯すことを証明している。

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