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ジョルジュ・コニョ「パリ・コミューンの歴史的地位」 8(すぐれた道徳をめざす闘争)

ここでは、「ジョルジュ・コニョ「パリ・コミューンの歴史的地位」 8(すぐれた道徳をめざす闘争)」 に関する記事を紹介しています。


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(『世界政治資料』1971.7.10)

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 コミューン戦士が労働運動、民主運動に残したすぐれた教訓の一つは、社会主義と進歩をめざす闘争が同時によりすぐれた道徳をめざす闘争であるという事実にかんするものである。コミューン指導者の清廉と利己心のなさは今なおよく知れわたっており、ファーヴルやティエールの堕落ぶりとはおどろくほどの対照をなしているが、そればかりではなく、コミューン治下のパリにおける秩序、風紀の改善、街頭の安全はしばしば指摘されたところである。
 三月一八日革命直後のパリの様相をマルクスがどんな言葉で語ったかはよく知られている。「じつにすばらしかったのは、コミューンがパリでなしとげた変化である! 第二帝政のみだらなパリは、もはや跡かたなかった。……労働し、考え、たたかい、血を流しつつあるパリは、新社会を生みだすことに熱中するあまり、食人鬼が門前にいることさえほとんど忘れて――その歴史的創意の熱情にかがやいていた!」「フランスにおける内乱」全集⑰ 、三二五〜三二六㌻)。
 しかし、あまり知られていないが、公平な現場の目撃者、まずなんといってもパリに旅行した外国人が、マルクスの判断を全面的に確認している。イギリスのマルクス主義者アンドルー・ロステインは最近の論文で、珍しい手紙を引用している。これはケンブリッジとハーローで教えたボウェン教授が、一八七一年四月なかばパリに八日間旅行して帰ってからその母親に書き送ったものである。「パリはまったく静かで、よく治められ、秩序だっていました。……だれも(上流階級の若干の人をのぞいて)みなヴェルサイユ側を憎んでいます。……パリは完全に下層階級の手ににぎられ、かれらは完全な秩序を保ってパリを治めています。この部分にはたった一人の警察官もおらず、裁判所も一つも開いていないのに、以前にあった暴行や犯罪の半数もおこっていません」(『レイバー・マンスリー』一九七一年三月、一三四㌻)。
 革命運動のよりすぐれた道徳は、とりわけ、パリのプロレタリアートの男女、こどもが五月二一日から二八日までの間にとった英雄的行動に示されている。この英雄的行動にヴェルサイユ派は肝をつぶし、その大部分の者にとってこの行動がまったく理解しがたいものにうつった。
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