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ジョルジュ・コニョ 「パリ・コミューンの歴史的地位」 6(プロレタリア国際主義と人民的愛国主義)

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(『世界政治資料』1971.7.10)

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6(プロレタリア国際主義と人民的愛国主義)
 一九世紀から二〇世紀への転換期にドレフュス派でジョーレスの側にたっていた詩人ペギーはいった。「愛国者というのはわれわれのことだ。それは、祖国が屈辱によって傷つけられたくないとわれわれが思っているからだ」。また別の機会にかれはいった。「祖国はつねに赤貧者に守られ、金持はこれを売り渡している」。はたして一八七一年に、ジュール・ファーヴルとティエールの政府は、民族的裏切りによって名誉を失墜した。今日の歴史家はほとんど一致して、マルクスがその時ただちにおこなったようにこの政府を判断している。マルクス主義的著述家ではないが、そのうちの一人ジャック・マドール氏の意見を聞いてみよう。「ヴェルサイユ議会に反対して立ち上った人びとは、愛国的人民であった。社会革命を不可避にするような、民族的であるとともに人民的である勝利の結果よりは、敗北や領土の切断の方を受けいれたがった人びとのために、戦争は多かれ少なかれ故意に敗北したのだと、人民は考えた。ブルジョアジーと祖国の利益よりかれらの階級の利益を優先した」(『フランス史』、ガリマール、一九四五年、二二八㌻)。
 コミューンは、人民的愛国主義を比類なく表現するものであった。この人民的愛国主義──あえてここにくりかえす必要があるだろうか――は、反動的愛国主義や排外主義とはなんの共通性もない。コミューンは軍国主義と侵略政策を非難した。そしてそれゆえにコミューンは、征服戦争の象徴であるヴァンドームの円柱の取り壊しを決定したのである。民主的世論はこぞって、この取り壊しを九月四日の政府(一八七〇年ナポレオン三世が捕虜となり、「第三共和制」として誕生したブルジョア政府─編注)に要求していたが、実現しなかった。
 しかし、コミューンの民族的性格についても、意見をのべなければならない。一部の歴史家はコミューン戦士の愛国主義を、もっと正確にいえばジャコバン党の伝統にたいするかれらのうちの大多数の狭隘な熱狂心を一方的に強調している。そのなかには、コミューンのなかに決定的に優勢だったのはジャコバンの過去の継承と模倣なのか、それとも社会主義の未来の前ぶれだったのかと自問している者がいる。また、たそがれなのか、それとも夜明けなのか、伝統主義なのか、それとも刷新なのか、という疑問も出されている。
 この問題に苦しむ人たちには、われわは偉大な進歩的詩人であり、一時期はマルクスの親しい友であった詩人、ハインリッヒ・ハイネの言葉を引用して答に代えよう。
 「わたしのゆりかごのまわりには、一八世紀の月の最後の微光と一九世紀の夜明けの最初の光が影をおとしていた」。
 このように、ハインリッヒ・ハイネは事物の進行における二つの側面の弁証法的相互関係から出発して、文学と思想の歴史におけるかれ自らの位置の問題をいきいきと柔軟に提起した。われわれはコミューンについてもそのようにしよう。われわれは提起されている問題にたいし、それはたそがれと、そして夜明けである、と答えよう。コミューンは実際、ある種のジャコバン主義のおくれがちで、すでに時代錯誤となっている最後の光を輝かしたと同時に、まだたゆたってはいるが、すでに社会主義への夜明けの光を輝かせたとわれわれは考えている。

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