4(可能なかぎりの経済的、社会的事業をおこなった)
フランスのマルクス主義者は今日、すべての社会的、民主的政党と勢力と戦闘的同盟を結ぶことによって、社会主義へむかう過渡期として、先進的民主主義体制を樹立することを提案している。民主主義を完全にするということは、なかんずく代議制度を完成させ、現在受動的な記録所の役割しかもっていない議会に真の権力をあたえ、行政、監督の面でも同様にすることである。
それは同時に、独占の支配の基礎となっている、今日の膨張した弾圧機構とたたかうことである。
民主主義を完全なものにすることはまた、民衆クラブ、労働組合、婦人組織、民衆新聞の発展を大胆に促進し、下からの意見を表明する可能性、生き生きとした力づよい民主主義への手段をことごとくきり開いたコミューンの模範にならうことである。とくにインタナショナル各支部の果たした役割はよく知られている。「パリ・コミューンは、運動のイニシャチブ、独立、自由という、また下からの力づよい躍進、およそルーチンとは無縁の自発的に同意された中央集権に関連したすべてのものという偉大な模範を示した」とレーニンは書いた。
わずかな期間とはいえ、コミューンは可能なかぎりの経済的、社会的事業をおこなった。コミューンは罰金や夜間労働に反対してたたかうとともに、労働条件を緩和したいと願い、労働日の短縮を計画した。コミューンは失業反対のたたかいを開始した。労働者の住宅条件は改善され、貧困者が公益質屋に預けいれた品物は受け出された。とりわけ所有者が放棄した工場や経営は、四月一六日の法令によって労働者組織に引き渡され、当時、敵、味方をとわずすべての新聞は、この措置を生産手段の社会化への一歩とみてとった。たとえばルーヴルの兵器工場など一部の生産においては、労働者による管理がうちたてられた。「マルクスがいったように、コミューンは収奪者を収容することをめざした。三月一八日事件にかんする議会調査委員会の報告者はこれを否定しなかった。というのは、反対に、モーリスモアッソニェが『コミューンと生きた民主主義』にかんする研究のなかで想起しているように、この報告者はコミューンを「あらゆる社会勢力を集中化し、土地と産業を所有し、それを活用するための役割と利益を仲間に分配する集団的存在」であったと定義することによって、実際にはコミューンに絶大な敬意を払ったからである。反動がコミューンの「仲間」と称するものは、もちろん、労働者階級を中心に結集した広範な人民の層であった。
これに中産階級も加えなければならない。かれらについては、コミューンはヴェルサイユ派による野蛮な圧殺政策に反対する措置をとった。コミューンは手形の支払い停止を延長することによって、一五万の小商人のさしせまる破局を救った。『フランスにおける内乱』の第一草稿に書かれているように、この時以来中産階級は、「かれらを救うことのできるものは、フランスの奴隷主志望者たちの腐敗した階級ではなくて、労働者階級の雄々しい志望とヘラクレス的な力とだけであることを感じとっている」(全集⑰、五二三㌻)。また、コミューンが動労農民との接触をうちたてようとしたことも無視できない。
(つづく)
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