3(労働者の政府)
コミューンにかんするあらゆる文書、とくにルージュリ氏が整理した文書は、一八七一年には一八四八年とちがって、建築労働者や金属労働者が大きな役割を果たしたことを立証している。弾圧をへて一八七二年には、パリはその労働人口の四分の一を失った。
労働者はコミューンをみずからの権力とみた。それだからこそ、労働者はその権力のためにたたかい、そのためにこそ幾万となく死んでいったのである。フランス・ジェズイト会の機関誌『エチュード』の五月号に、歴史学者ピエール・ソルラン氏はコミューンにかんする注目すべき論文をかかげ、「本質」は「フランスのプロレタリアートが六〇年代の工業の発展で強大となって、その数と力を自覚するにいたり、その政治的、社会的責任を果たそうと欲した」ことだという考え方を中心にすえている。社会的交代がおこなわれたこと、労働者が行政の指導にあたるようになったことを、三月一八日以後は、敵、味方ともすべての者が完全に認識した。プルードン主義者のシャルル・ベスレーがみずからいったように、コミューンは「われわれの歴史に新しい段階を切り開き、勤労者の時代が到来したことをわれわれに示した」。
たしかにソビエトの歴史学者A・マンフレッドの叙述するところによれば、人びとはつぎの事実を否定することはできない。「コミューンの法令、人民へのよびかけ、コミューンの指導者や一般戦士の言明には、あきらかに過去の声、過ぎた時代の夢や希望のひびきが感じとれ、その素朴な考えも幻想もまだ完全にはぬぐいさられていない。しかし同時に、なにか質的に異った、根本的に新しいものも、はっきりと感じとれる。
コミューンは一九世紀を通じてのプロレタリアートの上昇的発展の完成であり、極みであったばかりではない。コミューンはまた新しい展望をきり開き、新しい道をつけた。国際労働運動は人類解放の壮大なたたかいをさらにいっそう高く引上げながら、その道を前進せねばならなかったし、また実際に前進してきたのである」。
コミューン以前には、支配階級の利益を擁護するのに適した型の国家機構があった。革命はそれを破壊し、勤労者の利益を守るにふさわしい、新しい型の国家機構をうちたてた。初歩的ではあるが、これら二つの型の政治的方向のちがいと対立点を知るには、コミューンのもとでパリ人民がもっていた権利と、かれらが今日失っている権利を考えれば十分である。
「権限の分離」というブルジョアの教義から解放されて、コミューンは、二〇世紀の労働者国家にとって不可欠である政府機関、つまり立法、行政、監督の諸機能を結びつけた政府機関の模範を示した。労働者の政府は、つねに人民の心臓の鼓動を感じとり、希望とエネルギーを人民から汲みとり、勤労者の願いと意思の真の代表であるように構成されなければならないことを、コミューンはわれわれに教えた。
(つづく)
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