『樹木と果実』の最終号(1957年9月号)に編集責任者だった西杉夫が書いています。
◇ ◇ ◇ ◇
ことしの「樹木と果実」 西杉夫
去年のおわりごろは、「樹木と果実」の編集責任者は吉塚動治であったが、生活上の問題もあって事務所の五味書店にあまりきていなかった。たまたま中村温がきて通信の処理をやったりしていた。そのころわたしが科学新興社に移ってきたので(五味書店といっても、この科学新興社の中にデスクを一つかりていただけである。)、わたしに編集責任者をやったらという話が出て、編集会議でそうきまった。もっともわたしはほとんどの時間を科学新興社の方に注がねばならないから、とても一切の仕事は出来ず、編集部員が分担してやっていくことになった。五味書店から人件費の出る見込みは全くない状態になっていたのである。さらに今までの形での発行は印刷屋の払いもたまっていて、とてもむずかしかった。どうしてこういうことになったかということは前の文章でしろ・かずとが具体的にかいているが、(わたしは去年はほとんどタッチしていなかった。)やはりどういう雑誌にしていくのかが十分明確にされていなかったこと、さらにそれにかんれんして態勢のととのわないまま活版月刊四八頁にしたことだとおもう。経営的なことだけをいっても、よほどの努力と熟練がないかぎり、今日の出版界で商業雑誌を維持できるなんてことはありえない。
わたしたちは五味書店主とはなしあい、活版ではとても無理なので、体裁はわるくなるがタイプでつずけることにした。この場合内容は詩サークルで論議されている詩の問題を集中的に(具体的にいえば特集の形で)あつかい、それをサークルの詩をもっとよいものにしていく方向であきらかにしようということだった。素朴リアリズムや詩の難解性を特集したのはそういう意味である。同時に詩も、サークルのものにかぎらずなるべく多くのせようとした。詩サークルというものを中心的にはかんがえたが、そこだけに限定することは、詩を問題にする以上できないわけである。
編集部は若干の変動はあったが、五・六月合併号まで出してきた。タイブにすると、取次店にはほとんど出ず、したがって売行きは落ちたが、毎号の赤字は活版の時より少くなった。しかし赤字は赤字でこれが重なって発行できない状態になってしまった。全く専任者がおらず(それをおくことができず)、一週間に一度、しかも夜に編集部員が集るという態勢しかくめなかったことが、こういううすいタイプの雑誌も出せなくなった直接の原因だが、やはり詩サークルを対象にした雑誌のむつかしさが根本にはあるのである。さらにその底には戦後の文学運助の本質的な欠陥(それは政治的なあやまりと結びついている)をこの時期におけるわたしたちもまたつきぬけることができなかったことが横たわっている。
以上がことしに入ってからの「樹木と果実」についての事務的な報告だが、さいごにアンソロジーについてふれておきたい。はじめにかいたように満足なひきつぎなしにわたしが編集をやることになったのだが、「樹木と果実」詩選集第二集の参加費をすでに数サークルからうけとっていることがやがてわかった。これは一時編集責任者だった増岡敏和がほかの編集部員には十分相談せずに進めてきたもので、しかも別会計にしなかったため、これの費用が全くなくなっていることもわかった。ひきつぎ方も軽卒だったわけだが、わたしたち新編集部はこの金はすぐに返すべきであるときめて、五味書店と話しあい、五味書店もそれに同意したが、しかしまだ解決していない。こんごの財政処理はもちろん五味書店がおこない、これについても責任をもっているが、編集部に財政的には全く権限がなかったとはいえ、このほか前納金のこともふくめて、いや金のことだけでなく熱心な読者にご迷惑をおかけしたことをおわびしたい。
(『樹木と果実』 1957年9月号)
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ことしの「樹木と果実」 西杉夫
去年のおわりごろは、「樹木と果実」の編集責任者は吉塚動治であったが、生活上の問題もあって事務所の五味書店にあまりきていなかった。たまたま中村温がきて通信の処理をやったりしていた。そのころわたしが科学新興社に移ってきたので(五味書店といっても、この科学新興社の中にデスクを一つかりていただけである。)、わたしに編集責任者をやったらという話が出て、編集会議でそうきまった。もっともわたしはほとんどの時間を科学新興社の方に注がねばならないから、とても一切の仕事は出来ず、編集部員が分担してやっていくことになった。五味書店から人件費の出る見込みは全くない状態になっていたのである。さらに今までの形での発行は印刷屋の払いもたまっていて、とてもむずかしかった。どうしてこういうことになったかということは前の文章でしろ・かずとが具体的にかいているが、(わたしは去年はほとんどタッチしていなかった。)やはりどういう雑誌にしていくのかが十分明確にされていなかったこと、さらにそれにかんれんして態勢のととのわないまま活版月刊四八頁にしたことだとおもう。経営的なことだけをいっても、よほどの努力と熟練がないかぎり、今日の出版界で商業雑誌を維持できるなんてことはありえない。
わたしたちは五味書店主とはなしあい、活版ではとても無理なので、体裁はわるくなるがタイプでつずけることにした。この場合内容は詩サークルで論議されている詩の問題を集中的に(具体的にいえば特集の形で)あつかい、それをサークルの詩をもっとよいものにしていく方向であきらかにしようということだった。素朴リアリズムや詩の難解性を特集したのはそういう意味である。同時に詩も、サークルのものにかぎらずなるべく多くのせようとした。詩サークルというものを中心的にはかんがえたが、そこだけに限定することは、詩を問題にする以上できないわけである。
編集部は若干の変動はあったが、五・六月合併号まで出してきた。タイブにすると、取次店にはほとんど出ず、したがって売行きは落ちたが、毎号の赤字は活版の時より少くなった。しかし赤字は赤字でこれが重なって発行できない状態になってしまった。全く専任者がおらず(それをおくことができず)、一週間に一度、しかも夜に編集部員が集るという態勢しかくめなかったことが、こういううすいタイプの雑誌も出せなくなった直接の原因だが、やはり詩サークルを対象にした雑誌のむつかしさが根本にはあるのである。さらにその底には戦後の文学運助の本質的な欠陥(それは政治的なあやまりと結びついている)をこの時期におけるわたしたちもまたつきぬけることができなかったことが横たわっている。
以上がことしに入ってからの「樹木と果実」についての事務的な報告だが、さいごにアンソロジーについてふれておきたい。はじめにかいたように満足なひきつぎなしにわたしが編集をやることになったのだが、「樹木と果実」詩選集第二集の参加費をすでに数サークルからうけとっていることがやがてわかった。これは一時編集責任者だった増岡敏和がほかの編集部員には十分相談せずに進めてきたもので、しかも別会計にしなかったため、これの費用が全くなくなっていることもわかった。ひきつぎ方も軽卒だったわけだが、わたしたち新編集部はこの金はすぐに返すべきであるときめて、五味書店と話しあい、五味書店もそれに同意したが、しかしまだ解決していない。こんごの財政処理はもちろん五味書店がおこない、これについても責任をもっているが、編集部に財政的には全く権限がなかったとはいえ、このほか前納金のこともふくめて、いや金のことだけでなく熱心な読者にご迷惑をおかけしたことをおわびしたい。
(『樹木と果実』 1957年9月号)
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