月刊の詩誌『樹木と果実』の創刊から休刊までの経緯について、編集を担当したしろ・かずとが 最終号(1957年9月号)で詳しく書いています。
◇ ◇ ◇ ◇
「樹木と果実」の休刊について
しろ・かずと
=経過をたどる=
『樹木と果実』が遂に休刊となった。そこで、いままでの経過を編集に関係したものたちが夫々の立場から書き、責任の一端を明らかにするということになった。私もその一端をおうて書くのだが果してなにが明らかに出来るか、然し、いまはその不安をふみ切って経過を記すことにしたい。
一、一九五五年夏以後
発刊当時、編集に関係した者の多くが「詩運動」になんらかの関係を持った者らなので、その末期について少しふれておく。
六全協が出たあと、「詩運動」でもいろいろの動きがあった。もちろん、それは直接の問題ではないが、我々の間ではその従来の行き方について議論が出た。
私自身は「詩運動」末期に事務上の仕事をしていたが、作者の層、たとえば働く者たちであるということだけで、そしてまた、その働く者の生活が反映しているというだけの理由で作品が過大に評価されるのには疑問を感じていた。それは「民謡」が民衆によってうたわれたものであるというだけで重要なのではないのと同じことだと考えていた。
「生活をうたえ」ということも、生活の反映という点で理解するだけでは正しくないように考えていた。
その頃、読者になったばかりの、ある地方の若い労働者が、「詩運動」こそは働く者の立場に立つ。「現代詩」などは有害で無用だという語気の荒い通信を送って来た。通信欄にのせるのに、それはあまりに感情的で狭量で、運動の進む本質を考えず、セクト主義になっていると思い、その点で考え直し書き直して欲しい由を返書として送った。しかし、私への返事は、私を烈しく非難する言葉となって現われた。詩人たちの顔色をみて「現代詩」に遠慮ばかりしているへっぴり腰だ。そんなことで一体どうするか、というようなものであった。彼は「生活と文学」などにも作品を発表し、地もとでも熱のある仕事をしている人だと聞いていたので、私の受けたショックは大きかった。「詩運動」最終号の編集をしている頃の話しである。サークルやサークルの詩に対する私の考えは間違っているのかとやはりつきまとう不安は去らなかった。しかしどうしても、彼の意見が正当だとは思えなかったのである。
そこで、その年の手もとに寄せられてあったサークル誌・同人誌などを整理してきた結果をまとめ、いくらかでも現状を私のなかではっきりさせようとした。内容に関する地域・職域別の統計などもつくってみた。
八月には国鉄労働会館で、国鉄の鈴木茂正、南部のあさだ・いしじ、JAPの飯岡享らも加って新しい観点につき話し合いがもたれたりしたのであったが、私にはそうした機会を通じて、生活経験を書くというだけでなく、どういう点でどう描いたらよいのか?という表現上の問題を明らかにすることがやはり多くの人びとの内的欲求となっているのを感じた。もちろんそのなかには思いつきで書いているものも少くはない。作品も多くは足ぶみの状態ではあったが、「新しい詩の路」を求める動きは少しづつ各立場でもち上ってきていたのである。前記の読者のような主張はむしろ特殊なものであった。「現代詩」に対する不満も書かれてはあったが、それと無用論とは別のものである。
二、一九五六年春
三月、江森盛彌の尽力で新しい詩の雑誌が五味書店で出されることに決った。それは非常にあわただしく起った。失業していた私が五味書店に入り、その雑誌の編集事務を担当するということになった。名前の決ったのはもっと後である。
もちろん、「詩運動」の後継誌と直接考えての雑誌ではなかった。原稿料を払わなかったのだから、果してそういえるかどうか、その点でも怪しいが、一応五味書店発刊の商業的な雑誌だということだった。私の立場は従って五味書店に働く一従業員であった。ただ、雑誌の編集内容は詩人たちが集って方針を立ててやるということであった。書店の要望も入れうまくやっていこうと新しい気持がわいていた。サークルの詩の書き手、同人たち、多くの者がレアリズムの方法を求めている。あるいは詩の歴史や、詩人論、作品論などの本格的なものを欲している。伝統についても新しい理解の手がかりを求めている。詩を書くのにも、ただ衝動的に書くことへ反省をしはじめている。それは当時の私たち自身が夫々自分について考えれば、己れの内にも同じ動きがあったことを想起しうるであろう。
それらは、単に「サークルの詩」の問題ではなく、現代詩全体の課題と関係するものであった。この点に、新しい雑誌の基礎を置こうと私は考え、友人たちとも相談し合った。
そのためには、思い切って門戸は解放されねばならない。
「新日文·列島・などの詩人たちとの交流もみつにして、民主的な詩運動のために統一をはかってほしい」大阪の井上俊夫の通信はそう語っているが(四月号)我々の希望もそこにあった。「詩運動」の常任だった者としては、ゆうき・かおるが加っていたが、その当時は西杉夫は編集部にはいない。(離京していた)
しかし、我々が「詩運動」に多かれ少なかれ関係をもっていたために、また、この新しい雑誌の出発に当って「文学的な責任についての自己批判」が行われなかったために、いろいろの障害が後日おこってくる。
赤木健介は「詩運動」最終号で自己の意見をのべているが、指導的立場にいなかった者はこれからの仕事のなかでもやもやしているものをはっきりさせようとしていた。しかし、外側から見ている人びとの中には「詩運動」と「樹木と果実」の関係がすっきりとした形で受け取れずにいた者もあった。
私は、そうした疑問も含めて、詩の問題、文学運動上の問題を紙面にどしどし発表して貰うつもりでいた。ただそうした私の考えは、多少甘かったようである。
はじめに、吉塚動治はオブザバー。他に江森、大島、赤木、壺井らを含めた会議がもたれたが、赤木健介が加わっているということだけで、先づ最初の障害が生
れる。
野間宏の場合──野間はゆうきかおると会ったとき、赤木健介が加っているということを聞いていなかったようで、次に私が会ったとき、その点を問題にしていた。野間と赤木との間には、私の詳しくは知らないことで、いろいろ問題が残されたままであったらしい。人民文学や「詩運動」の中期まで、それらに関係のなかった私には詳しいことは分らないが、野間の赤木健介と一緒に仕事をするために、編集に直接関係をもつことは出来がたいという意見をきき、事情を察するということで無理にたのむということは遠慮した。若い人たちとは別になにもないので個人的には協力をするということで、二人は分れた。
三、創刊号発刊以後
民衆のもつ文化的エネルギーは、サークル誌一つみても充分うかがえる。しかしそれはいわば鉱脈のそれであり、そのままにすればそのままの存在で終る。これに芸術的な形を与え、エネルギーが芸術作品として発展するためには、より広い多くの詩人たちのキャパネテーが結合されなければならない。
サークルだけが決して全てではないのであるが、それはまた、日本の歴史的状況における存在であり、「生きもの」でもある。「生きもの」である以上、複雑な要素をもち、矛盾をはらみ、単純な「働くものの集り」という観念では理解されにくいものである。だから、「樹木と果実」がそれらの文学運動に主要な結びつきをもつとしても、もっともっと多くの能力を吸収しうる「自由」をもたねばならないのである。リアリズムの問題にしても、それはある限界、わくのなかだけでは創造的理論として明確になしうるとは思えない。有名、無名を問わず、エコールを問わず詩をつくる者の、自由な論争と対話との場をもちたかった。
しかし、「詩運動」と「樹木と果実」との関係が我々の説明ではまだ納得のいかないために、例えば原稿を書くということも、引受けてもらえない時があった。私はそうしたことも、できれば筆者の詩論のうちで展開してもらいたく、原稿の依頼も編集会議で提案していた。編集会職は若い者だけで普通は行ったが、はじめセクトをもつ者は一人もいなかった。みんな気持よく働き、みんなの利益になる仕事を進めたいという点で一致していた。
なかには、私なら私が「詩運動」に関係していたということからか、党内分裂のどちらかの片われと見て、(そのこと自体極めて主観的なことだったが)そっぽをむいていた者もいた。そういうとき、私は胸が痛んだ。私は分裂のいずれにも組織的に全く無関係な人間であったが、誤解は先方からやってくる。文学以前のことでありながら、文学にまとわりつくじめじめとした腐肉のようなものであった。
四月末には、増岡敏和が上京し、五味書店に入り、雑誌の仕事を手伝うことになった。他の編集部員は夫々動めをもち、実務はあまり出来なかったので、走り回る労働力の不足がひどかったし、給料も定期には(書店の事情からして)支給されえなかったので、アルバイトに相当の時間的・肉体的エネルギーをとられていたのが現状である。私は労力の拡大をよろこんだが、ここに思わぬことが発生した。
江森盛彌から、ある日、ある注意をされた。それは増岡が「現代詩」に対抗し、それをどうとかする云々。といったそうだが本当かというのである。続いて、壺井繁治から同様の注意を受けた。そんな根性では協力できないという。私はいくらなんでもそんな無分別な馬鹿化たことを考える者はいないから、なにかの誤りと思うと返事をして一応の了承はえた。本人は、そんな意味ではない。いわばよい意味での競争ということだという。増岡は広島時代からの因縁のようなものを引ずっていたようで、それがそうした誤解を与えたのかも分らないが、ちょっとしたことで、ある個人の過去の因縁が、現在の信用や協力を失う機会となりうるというのは、全く恐ろしいことだと感じた。そうしたことのために、彼が編集をやるのはふさわしくないなどと批判する者も出たりした。
その彼が岡本潤に原稿依頼に行ったときはまた別なことがおこった。「詩運動」との関係、赤木健介問題」などで書けないという。それは彼の意見の表明であるが、増岡の言に従っていえば、──そういうものをはっきりさせないうちに、紙上で論じていくというのは六全協以前のことである。党の現在は、はっきりしない以上書かないということだ。といったというのである。もし、そうだったら大変おかしいことである。党内問題を「樹木と果実」にまで延長させて考えている。第一、赤木健介の主宰する雑誌ではないし、党の機関誌などでは更にない。私は真疑をたしかめたく思い、岡本潤に会うことを希望したが、いまはかえって事をあらだてると増岡にさしとめられ、編集部として、それをたしかめに行くことは遂に出来なかった。これも多分、岡本の云ったことが誤り伝えられたのであろう。
あとあとに、吉塚動治が「樹木と果実」の編集を担当する一時期があるが、そのときも彼がそのことでつるし上げを喰った、などというまことしやかな伝説が誰れの口からか伝わる。そういう幽霊の足みたいに、あるのかないのか分らないえたいの知れぬものが、なぜいつまでも拭式されないで残るのか、奇怪である。彼が一時、「樹木と果実」の編集を担当したということで、「彼を批判する人間」がどこかに存在すると信じうるだろうか。そんな人間は実在する筈はないのである。だからデマゴギーなのだ。
私は、こんなことを長く書くつもりはない。ただ、私たち自身に「編集の計画性」を樹立するだけの力が不足していたことと、原稿一つさえなかなか書いてもらえないという現状とが重さなり、その二つの面が雑誌の上に狭さや底の浅さを生んだのである。いつだったか、「現代詩」の黒田喜夫らが、同じ文学運動にたずさわる者として、両方の編集部の者が、一度集って話し合おうといったことがある。私たちもそれは考えていた。しかしその機会もついにこないままに休刊の方が先にきた。
書いて貰えない人のあるのはその限り止むおえないことだ。雑誌を発展さすことによりそうした人びとも筆をとりうる条件をつくらねばならないのだ。
ところで、この雑誌は入門的な性格をもたすものだとか、初心者の手びきとなるようなものにするのだとか、「サークル的」という言葉も主としてそういった意味で語られたようだ。この点は私個人の考えとは多少のずれがある。そしてそういうところから、内容の統一がなかなかつくれず、原稿のはんいの限界と併せて、性格の弱さ、あいまいさも生れたのではないかと考えられる。
例えば、五月号の間宮芳生の「美しい日本語を若い創造力で」などは引継がれ、もっといろんな人びとの評論によって深められるべきものであった。民謡の間題にも通じていくべきものの端初であり、古典歌謡に対する目をひらいていく上での足がかりともするべきものであった。平安朝の民衆歌謡の問題は日常語の使用・口々にうたわれたものであるという点などから、底に重要な現代的モメントを持つ。宮廷貴族のなかで、短歌が、技巧と詠嘆のうちに生命力を失いつつあったとき、梁塵秘抄歌謡にみられるような日常語の使用や素材の生活性などは考えてみるに値することだ。しかし、そうしたものが、大して関心を編集部内でもよばなかったのはどういうわけか?直接的に詩をつくる面に関係がないと面白く思えないのか?それだけなら、古典などというものはいつまでたっても、私たちとは無縁でしかありえないではないか。
とり上げた問題が、一回かぎりに終ってしまう傾向は他の面でも沢山ある。「ネコの目のようにくるくる変っていって、われわれは追いつけない」(氷河期)
「系統的な編集方針が弱い。あつまったものをどう編集するかだけになっている(主体性の弱さ批判)。詩における伝統の継承・詩人論・詩史……サークルの問題、未開拓の分野を開拓する主動力の必要」など岡田芳彦、鈴木信、菊地道雄らから早くも助言や批判が送られてきた。
しかし一方、私たちの間には、例えば研究会のときでてくるのだが、野口清子の詩集「花市場」批判のもつ一つの傾向が存在している。彼女の後期の作品の方が前期よりもすぐれているという考え方。前期の単純な抒情よりも、後期の作品の方が、テーマの積極性・意識の明確さ・思想の発展においてすぐれているという意見。私や中村温はそれに反対していた。素材と形象の倒錯がそこにはあり、そうした考え方によって長い間、詩の魅力はそがれたのだ。かつて、因藤荘助は──「中央の詩人はすぐに社会主義レアリズムというようなことをいうが、現状の作品の段階とそれとの詩的関係についてははっきりした理論を打ち出さない。ために、少し書きなれた者が見ようみまねでおかしな方へそれていく。」という意味の批判を寄せたことがある。メタファーやアレゴリの機能を単に拒否することは誤りと思うが、しかし彼の意見はやはり正当であった。リアリズムについての不分明な理解への批判である。こうした点は、野口清子の詩に対する意見にあらわれてもいて、いぜんとして私たちの理論的弱さである。それは雑誌にも反映するものである。
私個人の力で出来るものではないが、なぜもっと詩作上の安易さなどについて、具体的な系統的な批判が編集され、そのなかで近代詩や戦後の詩の性格が発展的に批判摂取されなかったか。
大島博光の「フランスにおける国民詩の現状」、中村・赤木論争、リアリズム特集、国鉄の詩をめぐる問題、詩の難解性等、紙上にとり上げられた問題が内面的連関をもって持続的に押し進められていくだけの力が、文学、労働力その他あらゆる条件でめぐまれていなかったように思う。もちろん、それらの全ては、その限りにおいて議論の種となったが、読者の求めるものを一層ふかいものになしえたか否かを考えると、多くの欠陥を見出さねばならない。
五、人事
六月一日から私はデスクを離れ、生活のために昼間も他の職場で働くことになる。昼休かけつけて原稿整理をするとか、次の編集会談や研究会の打合わせをするとか、残業のあとで雑務をやるとか、断片的にしか実務をやることが出来なくなった。増岡の仕事はふえる一方であった。
その頃、「樹木と果実」は「現代詩」とあまり変わらないとか、同人誌化したとかいわれだした。また西杉夫などからも、赤字財政、私たちの追い込まれた生活などの理由で、穴を大きくしないうちにいまのうち中止した方がよいのではないか?という意見が出された。当時の私にはそういうことで、仕事の責任をうしろへ押し流してしまうことにさんせいできなかった。が、次第にあせりと苦しさが増大するのはとどめようもなかった。増岡は実によくエネルギッシュに働いていた。彼に対するいろんな批判は当時あったが、しかし彼の馬力と熱意でまがりなりにも雑誌はつづいたのである。その彼も生活に追われて、工場へ就職した。十月には私は半病人となってとにかく腰がひったたない始末で寝込んでしまった。実務担当者がいない。そこで吉塚勤治がそれを引受けてたった。しかし十・十一月号で雑誌は欠号となり、西杉夫が引受けてはじめるまで一時中断するのである。その後、苦しい運営の継続のうち今日まできた。書店もその立場において努力は払ってくれた。だが、一層大きな力が「樹木と果実」の上にかぶさった。
また、経済的理由だけではなく、「樹木と果実」では文学上の力ある仕事は出来ない。複雑な現状に立脚して編集の統一も計りがたい。そういった意見が次第に強まり、何回か話し合った結果、休刊ということになった。私にはこのような形で休刊せざるをえないことは非常に残念に思われる。しかし、現状は深刻であり、無理押しはなに生み出さない。
これからこそ、多くの人びとがその紙上をつうじて、対話し論争し、新しい理解を深め合うことが出来る時代なのに、私たちは逆に休刊を決意せざるをえない。
惜しく残念に思われる読者もいると思うし、いま、休刊し、次の別な新しい力を結集した方がましだと批判をもたれる読者もいると思う。
これを書いた後でも、自分は過去から未来を引出しえなかったことを思い知らされる。
去年末以後、実務を担当する余裕のないままに私は名ばかりの編集員となってしまったが、そのため手紙を書くべき人びとへも欠礼のままに終った。そのこと
をおわびし、「経過をたどる」という私の筆をここに終る。
(『樹木と果実』 1957年9月号)
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「樹木と果実」の休刊について
しろ・かずと
=経過をたどる=
『樹木と果実』が遂に休刊となった。そこで、いままでの経過を編集に関係したものたちが夫々の立場から書き、責任の一端を明らかにするということになった。私もその一端をおうて書くのだが果してなにが明らかに出来るか、然し、いまはその不安をふみ切って経過を記すことにしたい。
一、一九五五年夏以後
発刊当時、編集に関係した者の多くが「詩運動」になんらかの関係を持った者らなので、その末期について少しふれておく。
六全協が出たあと、「詩運動」でもいろいろの動きがあった。もちろん、それは直接の問題ではないが、我々の間ではその従来の行き方について議論が出た。
私自身は「詩運動」末期に事務上の仕事をしていたが、作者の層、たとえば働く者たちであるということだけで、そしてまた、その働く者の生活が反映しているというだけの理由で作品が過大に評価されるのには疑問を感じていた。それは「民謡」が民衆によってうたわれたものであるというだけで重要なのではないのと同じことだと考えていた。
「生活をうたえ」ということも、生活の反映という点で理解するだけでは正しくないように考えていた。
その頃、読者になったばかりの、ある地方の若い労働者が、「詩運動」こそは働く者の立場に立つ。「現代詩」などは有害で無用だという語気の荒い通信を送って来た。通信欄にのせるのに、それはあまりに感情的で狭量で、運動の進む本質を考えず、セクト主義になっていると思い、その点で考え直し書き直して欲しい由を返書として送った。しかし、私への返事は、私を烈しく非難する言葉となって現われた。詩人たちの顔色をみて「現代詩」に遠慮ばかりしているへっぴり腰だ。そんなことで一体どうするか、というようなものであった。彼は「生活と文学」などにも作品を発表し、地もとでも熱のある仕事をしている人だと聞いていたので、私の受けたショックは大きかった。「詩運動」最終号の編集をしている頃の話しである。サークルやサークルの詩に対する私の考えは間違っているのかとやはりつきまとう不安は去らなかった。しかしどうしても、彼の意見が正当だとは思えなかったのである。
そこで、その年の手もとに寄せられてあったサークル誌・同人誌などを整理してきた結果をまとめ、いくらかでも現状を私のなかではっきりさせようとした。内容に関する地域・職域別の統計などもつくってみた。
八月には国鉄労働会館で、国鉄の鈴木茂正、南部のあさだ・いしじ、JAPの飯岡享らも加って新しい観点につき話し合いがもたれたりしたのであったが、私にはそうした機会を通じて、生活経験を書くというだけでなく、どういう点でどう描いたらよいのか?という表現上の問題を明らかにすることがやはり多くの人びとの内的欲求となっているのを感じた。もちろんそのなかには思いつきで書いているものも少くはない。作品も多くは足ぶみの状態ではあったが、「新しい詩の路」を求める動きは少しづつ各立場でもち上ってきていたのである。前記の読者のような主張はむしろ特殊なものであった。「現代詩」に対する不満も書かれてはあったが、それと無用論とは別のものである。
二、一九五六年春
三月、江森盛彌の尽力で新しい詩の雑誌が五味書店で出されることに決った。それは非常にあわただしく起った。失業していた私が五味書店に入り、その雑誌の編集事務を担当するということになった。名前の決ったのはもっと後である。
もちろん、「詩運動」の後継誌と直接考えての雑誌ではなかった。原稿料を払わなかったのだから、果してそういえるかどうか、その点でも怪しいが、一応五味書店発刊の商業的な雑誌だということだった。私の立場は従って五味書店に働く一従業員であった。ただ、雑誌の編集内容は詩人たちが集って方針を立ててやるということであった。書店の要望も入れうまくやっていこうと新しい気持がわいていた。サークルの詩の書き手、同人たち、多くの者がレアリズムの方法を求めている。あるいは詩の歴史や、詩人論、作品論などの本格的なものを欲している。伝統についても新しい理解の手がかりを求めている。詩を書くのにも、ただ衝動的に書くことへ反省をしはじめている。それは当時の私たち自身が夫々自分について考えれば、己れの内にも同じ動きがあったことを想起しうるであろう。
それらは、単に「サークルの詩」の問題ではなく、現代詩全体の課題と関係するものであった。この点に、新しい雑誌の基礎を置こうと私は考え、友人たちとも相談し合った。
そのためには、思い切って門戸は解放されねばならない。
「新日文·列島・などの詩人たちとの交流もみつにして、民主的な詩運動のために統一をはかってほしい」大阪の井上俊夫の通信はそう語っているが(四月号)我々の希望もそこにあった。「詩運動」の常任だった者としては、ゆうき・かおるが加っていたが、その当時は西杉夫は編集部にはいない。(離京していた)
しかし、我々が「詩運動」に多かれ少なかれ関係をもっていたために、また、この新しい雑誌の出発に当って「文学的な責任についての自己批判」が行われなかったために、いろいろの障害が後日おこってくる。
赤木健介は「詩運動」最終号で自己の意見をのべているが、指導的立場にいなかった者はこれからの仕事のなかでもやもやしているものをはっきりさせようとしていた。しかし、外側から見ている人びとの中には「詩運動」と「樹木と果実」の関係がすっきりとした形で受け取れずにいた者もあった。
私は、そうした疑問も含めて、詩の問題、文学運動上の問題を紙面にどしどし発表して貰うつもりでいた。ただそうした私の考えは、多少甘かったようである。
はじめに、吉塚動治はオブザバー。他に江森、大島、赤木、壺井らを含めた会議がもたれたが、赤木健介が加わっているということだけで、先づ最初の障害が生
れる。
野間宏の場合──野間はゆうきかおると会ったとき、赤木健介が加っているということを聞いていなかったようで、次に私が会ったとき、その点を問題にしていた。野間と赤木との間には、私の詳しくは知らないことで、いろいろ問題が残されたままであったらしい。人民文学や「詩運動」の中期まで、それらに関係のなかった私には詳しいことは分らないが、野間の赤木健介と一緒に仕事をするために、編集に直接関係をもつことは出来がたいという意見をきき、事情を察するということで無理にたのむということは遠慮した。若い人たちとは別になにもないので個人的には協力をするということで、二人は分れた。
三、創刊号発刊以後
民衆のもつ文化的エネルギーは、サークル誌一つみても充分うかがえる。しかしそれはいわば鉱脈のそれであり、そのままにすればそのままの存在で終る。これに芸術的な形を与え、エネルギーが芸術作品として発展するためには、より広い多くの詩人たちのキャパネテーが結合されなければならない。
サークルだけが決して全てではないのであるが、それはまた、日本の歴史的状況における存在であり、「生きもの」でもある。「生きもの」である以上、複雑な要素をもち、矛盾をはらみ、単純な「働くものの集り」という観念では理解されにくいものである。だから、「樹木と果実」がそれらの文学運動に主要な結びつきをもつとしても、もっともっと多くの能力を吸収しうる「自由」をもたねばならないのである。リアリズムの問題にしても、それはある限界、わくのなかだけでは創造的理論として明確になしうるとは思えない。有名、無名を問わず、エコールを問わず詩をつくる者の、自由な論争と対話との場をもちたかった。
しかし、「詩運動」と「樹木と果実」との関係が我々の説明ではまだ納得のいかないために、例えば原稿を書くということも、引受けてもらえない時があった。私はそうしたことも、できれば筆者の詩論のうちで展開してもらいたく、原稿の依頼も編集会議で提案していた。編集会職は若い者だけで普通は行ったが、はじめセクトをもつ者は一人もいなかった。みんな気持よく働き、みんなの利益になる仕事を進めたいという点で一致していた。
なかには、私なら私が「詩運動」に関係していたということからか、党内分裂のどちらかの片われと見て、(そのこと自体極めて主観的なことだったが)そっぽをむいていた者もいた。そういうとき、私は胸が痛んだ。私は分裂のいずれにも組織的に全く無関係な人間であったが、誤解は先方からやってくる。文学以前のことでありながら、文学にまとわりつくじめじめとした腐肉のようなものであった。
四月末には、増岡敏和が上京し、五味書店に入り、雑誌の仕事を手伝うことになった。他の編集部員は夫々動めをもち、実務はあまり出来なかったので、走り回る労働力の不足がひどかったし、給料も定期には(書店の事情からして)支給されえなかったので、アルバイトに相当の時間的・肉体的エネルギーをとられていたのが現状である。私は労力の拡大をよろこんだが、ここに思わぬことが発生した。
江森盛彌から、ある日、ある注意をされた。それは増岡が「現代詩」に対抗し、それをどうとかする云々。といったそうだが本当かというのである。続いて、壺井繁治から同様の注意を受けた。そんな根性では協力できないという。私はいくらなんでもそんな無分別な馬鹿化たことを考える者はいないから、なにかの誤りと思うと返事をして一応の了承はえた。本人は、そんな意味ではない。いわばよい意味での競争ということだという。増岡は広島時代からの因縁のようなものを引ずっていたようで、それがそうした誤解を与えたのかも分らないが、ちょっとしたことで、ある個人の過去の因縁が、現在の信用や協力を失う機会となりうるというのは、全く恐ろしいことだと感じた。そうしたことのために、彼が編集をやるのはふさわしくないなどと批判する者も出たりした。
その彼が岡本潤に原稿依頼に行ったときはまた別なことがおこった。「詩運動」との関係、赤木健介問題」などで書けないという。それは彼の意見の表明であるが、増岡の言に従っていえば、──そういうものをはっきりさせないうちに、紙上で論じていくというのは六全協以前のことである。党の現在は、はっきりしない以上書かないということだ。といったというのである。もし、そうだったら大変おかしいことである。党内問題を「樹木と果実」にまで延長させて考えている。第一、赤木健介の主宰する雑誌ではないし、党の機関誌などでは更にない。私は真疑をたしかめたく思い、岡本潤に会うことを希望したが、いまはかえって事をあらだてると増岡にさしとめられ、編集部として、それをたしかめに行くことは遂に出来なかった。これも多分、岡本の云ったことが誤り伝えられたのであろう。
あとあとに、吉塚動治が「樹木と果実」の編集を担当する一時期があるが、そのときも彼がそのことでつるし上げを喰った、などというまことしやかな伝説が誰れの口からか伝わる。そういう幽霊の足みたいに、あるのかないのか分らないえたいの知れぬものが、なぜいつまでも拭式されないで残るのか、奇怪である。彼が一時、「樹木と果実」の編集を担当したということで、「彼を批判する人間」がどこかに存在すると信じうるだろうか。そんな人間は実在する筈はないのである。だからデマゴギーなのだ。
私は、こんなことを長く書くつもりはない。ただ、私たち自身に「編集の計画性」を樹立するだけの力が不足していたことと、原稿一つさえなかなか書いてもらえないという現状とが重さなり、その二つの面が雑誌の上に狭さや底の浅さを生んだのである。いつだったか、「現代詩」の黒田喜夫らが、同じ文学運動にたずさわる者として、両方の編集部の者が、一度集って話し合おうといったことがある。私たちもそれは考えていた。しかしその機会もついにこないままに休刊の方が先にきた。
書いて貰えない人のあるのはその限り止むおえないことだ。雑誌を発展さすことによりそうした人びとも筆をとりうる条件をつくらねばならないのだ。
ところで、この雑誌は入門的な性格をもたすものだとか、初心者の手びきとなるようなものにするのだとか、「サークル的」という言葉も主としてそういった意味で語られたようだ。この点は私個人の考えとは多少のずれがある。そしてそういうところから、内容の統一がなかなかつくれず、原稿のはんいの限界と併せて、性格の弱さ、あいまいさも生れたのではないかと考えられる。
例えば、五月号の間宮芳生の「美しい日本語を若い創造力で」などは引継がれ、もっといろんな人びとの評論によって深められるべきものであった。民謡の間題にも通じていくべきものの端初であり、古典歌謡に対する目をひらいていく上での足がかりともするべきものであった。平安朝の民衆歌謡の問題は日常語の使用・口々にうたわれたものであるという点などから、底に重要な現代的モメントを持つ。宮廷貴族のなかで、短歌が、技巧と詠嘆のうちに生命力を失いつつあったとき、梁塵秘抄歌謡にみられるような日常語の使用や素材の生活性などは考えてみるに値することだ。しかし、そうしたものが、大して関心を編集部内でもよばなかったのはどういうわけか?直接的に詩をつくる面に関係がないと面白く思えないのか?それだけなら、古典などというものはいつまでたっても、私たちとは無縁でしかありえないではないか。
とり上げた問題が、一回かぎりに終ってしまう傾向は他の面でも沢山ある。「ネコの目のようにくるくる変っていって、われわれは追いつけない」(氷河期)
「系統的な編集方針が弱い。あつまったものをどう編集するかだけになっている(主体性の弱さ批判)。詩における伝統の継承・詩人論・詩史……サークルの問題、未開拓の分野を開拓する主動力の必要」など岡田芳彦、鈴木信、菊地道雄らから早くも助言や批判が送られてきた。
しかし一方、私たちの間には、例えば研究会のときでてくるのだが、野口清子の詩集「花市場」批判のもつ一つの傾向が存在している。彼女の後期の作品の方が前期よりもすぐれているという考え方。前期の単純な抒情よりも、後期の作品の方が、テーマの積極性・意識の明確さ・思想の発展においてすぐれているという意見。私や中村温はそれに反対していた。素材と形象の倒錯がそこにはあり、そうした考え方によって長い間、詩の魅力はそがれたのだ。かつて、因藤荘助は──「中央の詩人はすぐに社会主義レアリズムというようなことをいうが、現状の作品の段階とそれとの詩的関係についてははっきりした理論を打ち出さない。ために、少し書きなれた者が見ようみまねでおかしな方へそれていく。」という意味の批判を寄せたことがある。メタファーやアレゴリの機能を単に拒否することは誤りと思うが、しかし彼の意見はやはり正当であった。リアリズムについての不分明な理解への批判である。こうした点は、野口清子の詩に対する意見にあらわれてもいて、いぜんとして私たちの理論的弱さである。それは雑誌にも反映するものである。
私個人の力で出来るものではないが、なぜもっと詩作上の安易さなどについて、具体的な系統的な批判が編集され、そのなかで近代詩や戦後の詩の性格が発展的に批判摂取されなかったか。
大島博光の「フランスにおける国民詩の現状」、中村・赤木論争、リアリズム特集、国鉄の詩をめぐる問題、詩の難解性等、紙上にとり上げられた問題が内面的連関をもって持続的に押し進められていくだけの力が、文学、労働力その他あらゆる条件でめぐまれていなかったように思う。もちろん、それらの全ては、その限りにおいて議論の種となったが、読者の求めるものを一層ふかいものになしえたか否かを考えると、多くの欠陥を見出さねばならない。
五、人事
六月一日から私はデスクを離れ、生活のために昼間も他の職場で働くことになる。昼休かけつけて原稿整理をするとか、次の編集会談や研究会の打合わせをするとか、残業のあとで雑務をやるとか、断片的にしか実務をやることが出来なくなった。増岡の仕事はふえる一方であった。
その頃、「樹木と果実」は「現代詩」とあまり変わらないとか、同人誌化したとかいわれだした。また西杉夫などからも、赤字財政、私たちの追い込まれた生活などの理由で、穴を大きくしないうちにいまのうち中止した方がよいのではないか?という意見が出された。当時の私にはそういうことで、仕事の責任をうしろへ押し流してしまうことにさんせいできなかった。が、次第にあせりと苦しさが増大するのはとどめようもなかった。増岡は実によくエネルギッシュに働いていた。彼に対するいろんな批判は当時あったが、しかし彼の馬力と熱意でまがりなりにも雑誌はつづいたのである。その彼も生活に追われて、工場へ就職した。十月には私は半病人となってとにかく腰がひったたない始末で寝込んでしまった。実務担当者がいない。そこで吉塚勤治がそれを引受けてたった。しかし十・十一月号で雑誌は欠号となり、西杉夫が引受けてはじめるまで一時中断するのである。その後、苦しい運営の継続のうち今日まできた。書店もその立場において努力は払ってくれた。だが、一層大きな力が「樹木と果実」の上にかぶさった。
また、経済的理由だけではなく、「樹木と果実」では文学上の力ある仕事は出来ない。複雑な現状に立脚して編集の統一も計りがたい。そういった意見が次第に強まり、何回か話し合った結果、休刊ということになった。私にはこのような形で休刊せざるをえないことは非常に残念に思われる。しかし、現状は深刻であり、無理押しはなに生み出さない。
これからこそ、多くの人びとがその紙上をつうじて、対話し論争し、新しい理解を深め合うことが出来る時代なのに、私たちは逆に休刊を決意せざるをえない。
惜しく残念に思われる読者もいると思うし、いま、休刊し、次の別な新しい力を結集した方がましだと批判をもたれる読者もいると思う。
これを書いた後でも、自分は過去から未来を引出しえなかったことを思い知らされる。
去年末以後、実務を担当する余裕のないままに私は名ばかりの編集員となってしまったが、そのため手紙を書くべき人びとへも欠礼のままに終った。そのこと
をおわびし、「経過をたどる」という私の筆をここに終る。
(『樹木と果実』 1957年9月号)
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