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フランスにおける国民詩の現状 (8)アラゴンは我々の詩に光を与えた

ここでは、「フランスにおける国民詩の現状 (8)アラゴンは我々の詩に光を与えた」 に関する記事を紹介しています。


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(大島博光「フランスにおける国民詩の現状──国民詩日記の意義──」
  『樹木と果実』1956年5月号)

女性








フランスにおける国民詩の現状──国民詩日記の意義──
                                          大島博光

 一九五四年に、アラゴンによって「国民詩日記」がかかれた。このアントロジーには「レットル・フランセーズ」紙に発表された、ギィュヴィック、アンリ・ビシェット、フランソワ・ケレル、シャルル・ドブサンスキーなど、四十人の詩人たちの伝統的な形式でかかれた詩とそれらにふれて書かれたアラゴンの国民詩論やソネット論があつめられている。
 このアントロジーは、フランスの詩の歴史のうえでの大きな出来ごとであると同時に、現代フランスの詩の、ひとつの強力な流れをなし、その方向を決定づける重大な意義をもっているといえよう。
 このアントロジーのふかい意義の一つは、その精神形成も、資質も、世代も、それぞれにちがっている多くの詩人たちのあいだに、国民詩の名のもとにつながりがつくりだされたということのなかにある。国民詩という名まえは、たんなる一つの名札ではない。そのすべての詩が、伝統的な民族的な諸形式でかかれたこのアントロジーが、フランスのひとつの強力な流れを反映し、国民的闘争を反映しているからである。
 また、このアントロジーの重大さは、それがフランスの詩における大きな変化、詩的方法の転換をはっきりとしめしていることである。
 このアントロジーにふれて、ドブザンスキーは、「国民詩についでの反省」(『ヌーヴェル・クリティク』一九五五年六月号)のなかで、若い世代の立場からおよそつぎのように書いている。
 「このアントロジーの重大さをつかむためには、ちょっとうしろをふりかえり、われわれがたどってきた詩的方法の転換の根もとをさぐり、いろいろちがった道をとおってどのようにしてここへたどりついたかを見なければならない。脚韻をふんだ定形詩の伝統を手ばなさなかった詩人たちにとって、これは彼らの確信にあたらしい力をあたえ、かれらの模索に批判的な光りを投げた。また、ほかの詩人たちにとっては、それは、過去と手をきり、それまで投げすてぶべつしていた形式をふたたびとりあげることへとみちびいた。この形式の回復は、あるひとびとが信じがちなような、一種の追随主義でもなければ、また理由のない豹変でもなく、歴史のうえにたった発展なのである。

2 無名詩人たちの詩

 一九四九年のすえ「レットル・フランセーズ」紙は、多くの若い詩人たちに紙面をさいて「無名詩人たちの詩」として紹介した。それは、若い詩人たちにとって、文学へ第一歩をふみだす手助けとなった。まだつぶやいているような彼らの声から、ひきだすことのできたのは、ひとえに未来への希望であった。そこには、やっと大人になったばかりの詩人たちの不器用さや、多くの影響や、くさみなどが見られた。フランスの若い世代の詩人たちも、シュルレアリズム、ダダイズム、未来主義その他のあらゆる詩的誘惑にいざなわれ影響をうけていたのである。その頃の思い出をドブザンスキーはつぎのように書いている。
 「われわれにとって、詩は、まだ眼の前のいばらをきりのけながら、手さぐりで進んでゆくジャングルのようなものであり、われわれ自身の手で方向をみつけだすことはできなかった」
 一九五一年に「レットル・フランセーズ」はまた「うつくしい青春」と題するアントロジーを出した。このアントロジーにあつめられた若い詩人たちの詩には、とにかく、その形式上のちがいを越えて、ある共通点があった。エルザ・トリオレは、その意義についてつぎのように書いている。
 「かれらの詩は、かれらに希望をあたえるもののうえに根を置いている。なぜなら、これらの若い詩人たちは、そのみじかい過去を戦争のおそろしさのなかにくぐりぬけ、かれらの先輩たちがもの語り、また生きぬいてきた不幸の子であって、かれらは、幸福になれるような未来を熱情的に夢みている。未来と希望とは、かれらにとって同じ意味をもった言葉である。かれらの詩の大きな関心事は不幸をせきとめ、進歩と科学と人間変革の光りにてらして、未来を想いえがくことである」
 これらの若い詩人たちのなかから「青年詩人集団」がつくられ、ドブザンスキーもそのひとりであったが、このグループもだんだんと分裂し、散らばっていった。
 あるものは個人主義的な詩作にもどってゆき、あるものは、詩をなげすててしまった。かれらには、詩はいわば、幻想のはかないひとときの燃えあがりのようなものにすぎなかった。このグループには、発展するために必要な活力、内なる火、けっきょく詩をかかないではいられぬという情熱と追求が欠けていたのだといえよう。けれども、このグループのなかから、さらに前進して行ったドブザンスキーたちもいたのである。

 その頃、つまり戦後のフランスの詩壇も、ひじょうに混乱していた。さまざまの傾向と流派がいりみだれ、なかでも、芸術至上主義的な傾向と、知的なアナーキズムがさかんであった。それと同時に詩に関する著書、小さな詩誌、自費出版の詩集などが、ぞくぞくとあらわれた。それはとにかく、ひろいたくさんのひとびとが、詩をもとめていることのあらわれであった。
 多くの若い詩人たちは自由詩をかき、ごく少数のものが定形詩をかいていた。しかも、その大部分の詩人たちは、どのような動機と理由で、めいめいの詩形式をえらんだのか、はっきり意識してはいなかったようである。つまり、自由詩──形式上の個人主義、みせかけの独創性、えてかってな作詩が、支配的であった。独創性だけが、詩人としての資質をきめるただひとつの規準だという考えが、意識的にせよ、無意的にせよ、ひろまっていたのである。フランスの現代詩における、この独創性の由来と意味について、アラゴンはつぎのように、明快に分析している。
 「芸術のための芸術の理論が支配的となったとき以来……ランボーの生活と時代についてのあやまった見方と歴史的なあいまいさのうえにうち立てられたランボーの作品解釈が、そのほかには、どんな救いもなく、それだけがなんらかの詩的態度をきめる出発点となっていた。ランボー以来、詩人は、かれの名をとってランボー主義と呼ばれたもののなかに閉じこめられなければならなかった。いわゆるランボー主義が理想としたのは、ランボーの生活の不幸をなしていたものであった。ランボー主義は、つまるところ、ランボーの詩ではなく、かれの時代の社会的諸条件によって強いられたかれの沈黙を手本とし、なにごとかを語ったという事実をではなくなんにも言わないという術を手本とし、ランボーの詩の無類のうつくしさをではなく、ランボーの詩のくずれ乱れを手本とした。このような手本から出発して、あらゆる詩的経験を一掃し、めいめいの詩人が、めいめいの独創的な形式をつくりだそうとするにいたった。その結果、あらゆる詩的伝統、あらゆる共通の言葉を否定するにいたり、フランスの詩の民族的形式──民衆のこころにこだましうるすべてのもの、詩人と読者のむすびつきをつくりだすすべてのものを否定する形式上の個人主義がもたらされた」
 このような自由詩の専制、形式上の個人主義の支配は、脚韻をふんだ定形的な形式で書くことをぶべつし、禁ずるような風潮をつくりだしていた。その結果は、逆に、詩人の個性の発展にあまり合致しない、手さきだけの工夫、言葉による曲芸の傾向をつよめ、詩のきりひらくべき領域を、かえってせばめることになった。自由詩はエリュアールの言葉でいえば、「つながりのない、ひとむれの言葉、うつろな石」であった。
 このような詩的状況のなかで、若い進歩的な詩人たちのとった態度と実践について、ドブザンスキーはつぎのよう書いている。
 「……われわれもみんな共通して、明快でありたい、ひろい読者に読まれたいという意志をもっていた。そのために、われわれは、あの神秘主義のまちがった伝統と、決定的に手をきる決意かためた。このまちがった伝統こそ、フランスの詩に多くの害悪をおよぼし、詩をひろい読者からひきはなしてしまったのだ。
 この決意は、だんだんに、われわれをレアリズムの発見へと、みちびかないではいなかった。このレアリズムこそ、やがて、われわれの光り、あの内なる火になるものであった。けれども、その頃、われわれの明快でありたい、すべてのひとびとのために語りたい、われわれのはげしい感情とともに、政治的な関心、生活を詩にうたいたいというねがいは、われわれを、多くの奇妙な矛盾へ追いやった。われわれは、プレヴェール、アラゴン、マヤコフスキーのうち、誰を手本とするかにまよい、民衆主義と革命的ロマンチズムを区別することもできないでいた。われわれは、ひとびとへの愛情、歴史と社会の動きの詩的表現と、粗雑な宣言、スローガン、政治的主張とを、ごっちゃに混同する傾向をもっていた。そこで、それぞれの場合によって、あるいは図式主義、セクト主義、卑俗社会学主義などとよばれる、あのゆがんだ鏡のなかに、詩をなげこんだ。たしかに、われわれは、根本的には、レジスタンスの詩を目標としていた。レジスタンスの詩は、われわれにとって、あの詩人の感性と民衆の意識とのすばらしい統一の手本であった。……

3 詩人と読者を結ぶもの

 若い詩人たちが、多くのひとびとに語りたい、わかりやすくうたいたいという意志をもちながら、その手だてと方法がはっきりつかめない。いわば、こころと理性との分裂状態のなかで、いろいろな矛盾のうずまくなかで、はっきりと道をさししめしたのは、アラゴンとエリュアールであった。
 この二人の詩人の手本は、若い詩人たちにとって、それほどあたらしいものではなかった。この二人の詩人は、かれらの作品と生活実践とによって、光りがどちらのがわから射しのぼってくるかを、はっきりとあかしだした。けれども、この二つの偉大な声が、ほんとうに理解されるまでには、ながい時間が必要である。
 たえば、エリュアールの詩は、たしかに青年たちの精神に、ふかい魅惑をあたえてきたし、いまもなおあたえている。しかし、エリュアールが「政治詩集」のなかでうたったような、高らかにすべてを語ろうとする意志、その歌のなかに、明快なことばで、現実世界を総括しようとする意志、そこまで到達したエリュアールの態度のぜんたいの姿は、しばしば、とらえられず、見うしなわれがちであった。
 けれども、とりわけ、エリュアールが重要な影響をあたえたのはかれが晩年の数年に「ほんとうに脚韻をふみ、ほんとうにリズムをもった」詩を書くにいたったことである、「ディディエ・デローシュ」というペンネームで発表した『希望のちから』という詩から、最後の作品「ル・シャトー・デ・ボーヴル」へと、エリュアールはたんに脚韻をふむだけでなく、伝統にもっともちかい律格の新しい組合せをこころみ、韻律詩作法の伝統的規則にしたがって書くようになったのである。エリュアールは死ぬまぎわまで、じぶんの芸術について自己批判をつづけ、このような発展をしめしたが、それは澄みきった精神と勇気とのみごとな模範であった。だからこそ、このエリュアールの「ほんとうに韻律をふんだ、ほんとうにリズムをもった」詩への発展、ときには矛盾した、困難な発展は、若い世代にとって貴重な手引きともなることができた。それはまた、フランスの深部における転換のあらわれでもあった。現代詩を根底からくつがえしつつある新しい流れ──国民詩の流れも、とうぜん、この転換にむすびついているのである。この新しい流れの主唱者はいうまでもなくアラゴンである。 

4 新しい詩の道はどこにあるか

 じぶんの芸術について、絶えず自己批判をすすめるということ。アラゴンはみずから言っているように、かれの生涯はこの自己批判の歴史であった。
 かれは、いちばんはじめに、シュルレアリズムからはなれた。かれは、いちばんはじめに、非社会主義体制のもとにおいても、社会主義レアリズムの原則のうえにたった党の文学が可能であり、必要であると主張した。
 「甘年まえ、いやつい最近まで、社会主義レアリズムを模範とすべきだと考えていたひとたちさえ、何か、ひかえめにしているとも思われる、気がねのようなものから、レアリズムは進歩的文学の法則だが、社会主義のないフランスでは、ほんとうの社会主義レアリズムを問題にすることはできないのではないか、というように考えがちであった。わたし自身は、しばしば、なかみのともなわない名札を性急につかうことには反対してきたが、しかし、このようなひかえめな態度をうけいれることはできなかった。わたしはつねに、ソヴェト同盟が実存するということが、わが国の作家たちにも、社会主義への見通しをあたえることができるし、与えている。そうしてそれだけでも、文学的創造の諸条件をまったく変えるに十分だという見地をまもってきた。かんたんにいえば、社会主義レアリズムは、資本主義の国においても可能である。ただ、芸術家、作家が、発展しつつある労働者階級のイデオロギーをじぶんのものにし、社会主義の見とおしのうえに立って、自国民、自民族の歴史的、科学的な認識にもとずいて、レアリスチックな芸術をつくりだしてゆくことができればよいのだ。……」
 アラゴンが、マルクス主義科学のうえにたって、フランスの詩の諸問題を解決したのは、一九三九年、つまり第二次世界大戦の前夜であった。アラゴンは、その年だした「断腸詩集」によって、民族のうた──国民詩の偉大さを発見した。それらの詩は、当時のひとびとに高らかなひびきをあたえ、その後の、ナチス占領下の暗黒時代には、かれのいくつかの詩はもはや伝説的なものとなって、ひとびとの記憶にきざみこまれたのであった。このことは、つぎのことをしめしている。つまり、数世代の詩人たちによってかたちづくられ、ながい年代をへて完成され、ひとびとの耳とこころによってみとめられてきた詩形式、うたうしらべは、国民のすべてのひとびとの共感と共鳴をよぶことのできる手段であり、楽器であるということである。アラゴンはこのことを、内容と形式との完全な統一によって、生きている現代語のあらゆるゆたかさと、過去の詩のゆたかさを駆使することによって、実現することができたのである。
 エリュアールとアラゴン、このシュルレアリズムの世代の代表的な二人の詩人が、形式における個人主義と決定的にたもとをわかったということこそ、こんにちのフランス詩のもっとも根本的な事実であり、ふかい意義をふくんでいるのだ。もしもこのことがわからないなら、詩の発展の道をただしく見ることができないし、生れてくるものと、ほろびゆくものとを、弁証法的に見わけることもできないし、はっきりと自己の方向をみつけだすこともできないであろう。

5 形式もまた闘う

 一九五四年の初め頃から、もうひとりの世代のちがった詩人ギュヴィックは、それまで書きつづけていた独特な自由詩を放棄して、ソネット形式でかきはじめた。それは『ウーロープ』誌上の「詩についての論争」など、多くの論争をまき起こさずにはいなかった。
 この転回について、ギュヴィックはつぎのように告白している。
 「……『わたしの芸術の論理』によって、わたしは伝統的詩形式を、きわめて自然にもちいるにいたり、一九五四年の初めから、それをもちいているのだ。ところで、なぜ、この転回が、一九五三年の終りにおこなわれたのか。意地わるなひとたちはそういうだろう。だが、ひとは遠くからやってくるのだ。そうして、詩的創造の道──わたしはこのことばを好まないが……──は、あまりはっきりとしたものではない。事実はこうだ。ながい反省、じぶん自身とのくるしい討論をかさねていた頃、伝統的な詩形式がわたしのまえにあらわれ、それはわたしにとって自然なものとなった。また、アラゴンが書いたように、わたしが身動きのできぬ袋小路にはいりこんでいたのも事実である。二年ちかくまえから、わたしはほとんど何も書かないでいた。こういう状態にいたとき、わたしは、エリュアールが韻律をもった詩にいざなわれていたというアラゴンの文章をよんだ。そのとき、わたしはひじょうな衝撃をうけた。そうしてわたしは、伝統的な形式で、ひとつの詩をかいた。(おお、それは十二音節《アレキサンドル》ではなく、臆病な十音節《デカシラブ》であった。)わたしは第一歩をふみだしたのだ。……うたがいもなく、アラゴンの論文が決定的であった。アラゴンの創造的天才とどうように、かれの批判的天才とその明敏さに、わたしは大きな信頼をいただいていた。……」
 ギュヴィックは、『ウーロープ』誌上での、ジャン・トルテルの反駁にたいして、十四のソネットでこたえているが、その一つで、つぎのようにうたっている。

 詩人は、いまわたしの語った光りに照らされて
 ただ、くらみを見ぬくことができるだけでない。
 かれまた、その歌にふさわしい形式を与えるという。
 ただしい希望をも、もつことができるのだ。

 詩人は、ひとびとに想いをはせ、希望のうたで、
 ひとびとにその負いめをはたすのだと、知るなら、
 ただしい形式をもつことも、かれの義務なのだ。
 よくあてはまった形式は、形式もまた闘うのだ。

 ギュヴィックがフランスのソネットにもたらしたものについてはこれからもながく論議されるだろう。けれども、ここで、強調されるべきことは、ギュヴィックがこのように自分を表現するために、ソネットの形式をえらんだということだけではなく、かれが、フランスの歴史のある瞬間に、この形式をえらんだということである。ここにこそ、ふかい意義がある。
 このような指導的な詩人たちの発展は、論理にかなったものであった。これらの発展は、意識の内部での、はげしいたたかいによって進められ、詩的創造の前進をはばむ多くの矛盾を、手法的に克服することによっておこなわれた。この発展がただしかったことは、それが、時代の混乱のなかであがいていた若い世代の精神に、力づよく鳴りひびいたことからも、よみとることができる。それは、若い世代が、こころのなかで考え、予感していたもののこだまであった。

6 ドブザンスキーの意見

 そこで、詩人が、伝統的な詩形式を、じぶんの詩的発想にもっともかなった形式とみなし、その形式をとりいれるにいたった、その複雑な過程はきわめて興味ぶかい問題である。ドブザンスキーはそれについて、つぎのように書いている。
 「……伝統的な形式へもどるということを、機械的に考えてはならぬ、とわたしはおもう。それは内面的な必然性とむすびついていなければならぬのだ、それに、ある伝統的な形式を、ほんとうの批判的摂取なしに、無反省に、そのまま単純に再用するということはひじょうに危険でさえあろう。ある種の定形的形式を、そこになんら新しい、個性的な要素をつけくわえることなしに、とりあげるのは、とりわけ危険であろう。ランボーのことばでいえば、「ぜったいに近代的」でなければならぬし、詩人は創造するものであり、発明するものであり、したがって、つねに伝統と革新的な精神とをむすびつけなければならない。このような詩人の精神は、伝統的な詩作法のわく──それはひとの考えるほど、そんなに厳格なものではない──のなかで、充分に活動することができる。アラゴンは、この領域でも、伝統的十二綴音格《アレキザンドラン》と脚韻を、現代的なはなし言葉や言いまわしや、語意に適合させることによって、模範をしめした。アラゴンが詩のことばの革新にもたらした手法については、いまさら思い出す必要もない。わたしがこう言うのは、しばしば、自由詩の安易さとどうように、危険な定形詩の安易さで書いているような同志たちに向ってばかりでなく、わたし自身にむかって言うのだ。なぜなら、わたしもたしかに、いま言ったような点を考えにいれずにやってきたからである。われわれは、たんなる語呂あわせや、十二綴音格《アレキザンドラン》のための十二綴音格《アレキザンドラン》を好むのではない。じっさい、詩のかたちにととのえた散文のようなものではない。脚韻をふんだ、ただしい詩をかくのは、ひじょうにむつかしいのだ。それには、言葉についてのふかい知識や、詩の技術、一般的な教養、過去の詩的遺産からの批判的摂取などが必要なのだ。エリュアールその模範をしめしたように。数年まえ、自由詩か、脚韻をふんだ、形式をもった詩か、という間題で討論がおこなわれたとき、──そのときは、形式をもった詩を支持するものは少数派であった──この二つの形式の一種の共存がみとめられ、内容の価値が第一の基準であるように、われわれには思われた。たしかに、すぐれた詩的才能をもった詩人たちが、自由詩でかいているのだから、目田詩を排他的にしりぞけるのは、ただしくなかったであろう。このことは、こんにちでもおなじである。われわれは、どのような意味においても、排他的であることには反対する。詩的精神は、あらゆる手段で表現されうるからだ。けれども、わたしのふかく確信するところでは、自由詩主義vers-librismeは、われわれの世代の現実的な熱望にこたえないのだ。自由詩主義は、われわれの世代がそれではやりにくい、摂収しにくい遺産であり、創造的飛躍をはばむものなのだ。はんたいにわれわれの世代の独創性をかたちづくっているのは、この世代か。むろん国民詩の意味での、定形詩にいだいている魅力なのだ。それによってこそ、われわれの世代は、その個性のもっとも高い表現をみいだしうる、とわたしは信じる。……それは、すべての詩入にとって、歴史的進歩の結果であるばかりでなく、われわれの世代の自己表現と進歩の手段そのものだからである。
 いま言ったことを、もう少しくわしく論じなければならぬが、十二の音綴をならべたり、二つの詩句の脚韻をふんだからといって、詩人なのではない。また、行べつにするために、散文をはさみで切ったからといって、なおさら詩人なのではない。この問題については、フェネロンの『叙事詩論』のなかのことばをひくのが、いちばんよかろう。
 『ひとは、ポエジーなしに詩句をつくることもできる。詩句などつくらずとも、まったく詩的であることもできる。ひとは、技術によって詩作りのまねをすることはできるが、しかし、詩人して生れなければならぬ。詩《ポエジー》を詩たらしめるものは、音節を規則にあてはめた調子や、固定した均勢などではなく、いきいきとしたフィクシオン、大胆な形象、影像《イメージ》の多様さと美しさなのだ。それは、熱狂、精神の火、はげしさ、力づよさ、自然のみがあたえうる言葉と思想のなかの、あの何ものかなのだ。』」

7 定形詩と国民詩とレアリズムの関係

 このように、ギュヴィックやドブザンスキーのような人たちが国民詩へとみちびかれ、伝統的な形式をとりあげるにいたった「芸術の論理」内面的な必要性は、では、いったいどのようなものなのか。ここで、詩の内容しての、現実をつかみとる方法としての、レアリズムが問題となってくる。「わたしを国民詩へとみちびいたのは、レアリズムのやむにやまれぬ倫理《モラル》的な要求なのだ」とドブザンスキーは言っている。
 そこで、定形詩と国民詩とレアリズムの関係を、はっきりさせておく必要がある。
 むろん、伝統的な形式でかけば、それが国民詩だというようなことはありえない。定形詩には、うしろむきの思想や無国籍の思想をふくめて、あらゆる種類の思想をうたいこめることができるからである。国民詩は、たんに形式だけについての論議なのではなく、それはまず内容と思想の問題を提起する。国民詩は、民族的現実の反映であり、わきあがる民族感情の反映である。この民族感情、民族意識こそが、こんにち、民族形式にあたらしい光りをあたえているのだ、といえよう。
 「われわれの伝統的詩形を再建するということは、あらゆる見地からみて、詩におけるレアリズムにとって有益である。それは、文化の国民性をなくなそうとする動きと個人主義によっておびやかされている国民感情の表現そのものである。わがフランス詩の諸特徴を放棄せよという要求は、そのまま、わが国民の主権を放棄せよという要求にもひとしい。……わがくにの伝統的な音節詩形が、韻律、脚韻、休止法、ソネットのような特殊な形式、あるいは、いろいろな詩節の使用と変曲などによってつくりだしている、詩の言葉と言葉のあいだのわかちがたい結びつきは、詩の言葉と行のあいだの結びつきであるばかりでなく、詩人と読者とのあいだの結びつきであり、民族的性格の結びつきなのである。これこそ、わが音節詩形に重大な価値と意義をあたえているものなのだ。これこそ、詩形の破壊、技法のアナーキー、詩における形式上の個人主義を主張するひとたちが、攻撃してやまないところのものなのである」(アラゴン)
 国民詩における、民族形式と内容の統一、その相互作用については、このようにこそとらえられねばならぬであろう。

8 アラゴンは我々の詩に光を与えた

 一九五二年、ユーゴーの百五十年祭を記念して書かれた、アラゴンの『レアリスト詩人ユーゴー』は、国民詩の発展に大き投割りをはたした。とりわけ、アラゴンがこの書でこころみている詩におけるレアリズムの根本的な定義、自然主義とレアリズムとの区別はそれまで手さぐりで模索していた若い詩人たちに、探照灯のような光りを投げ、レアリズムの道をはっきりとさししめしたものであった。アラゴンはつぎのように書いている。
 「断片的なひときれの生活、いわゆる客観性をもった自然主義とは反対に、レアリズムは思想の文学である。レアリズムが自然主義とちがう点は、まずレアリズムが選びとるという点にある、自然主義が写真のような影像をつくりだそうとするのにたいして、レアリズムは、不意うちの写真や早取写真ではなく、典型を、創造された典型を──典型的情況においてとらえられた典型的な人間を、えがこうとする。つまり、自然主義が、行きづまりの人物、偶然の人間、実存的のものを写真のようにえがくのにたいして、レアリズムとは、英雄を、数百万のひとびとの模範となるもの、その生活そのものがひとびとを鼓舞し、みちびくような人物をえがくものなのだ。レアリズムは、英雄の世界がはじまるところから、はじまるのだ。
 そうして、詩の領域において、わたしはつぎのような詩を、レアリズムの詩と呼ぶであろう。つまり、燃焼そのものを詩の目的とするのではなく、ひとびとを未来の精神において教育し、変革することを存在理由とし、現実から出発して、現実そのものを変革するにいたるような典型的影像を、人間ならば英雄たちの影像をつくりだすような詩を、わたしはレアリズムの詩とよぶであろう。わたしは何ごとであれ、とりわけものを言うことをやめさせてしまう、あの逃避の詩と、ひとを眠りこませる子守歌の詩とははんたいに思想と英雄主義の詩をレアリズムの詩とよぶであろう。……」
 アラゴンは、詩におけるレアリズムの道を、理論的に、はっきりと照しだしたばかりでなく、二千行におよぶ長詩『眼と記憶』(一九五四年)をかいて、みずからの国民詩論の典型をしめした。この詩においては、ひとりの人間の全生活、そのあらゆる体験とひろい知識、その苦悩と悲痛、その愛と善意がうたわれている。そのうたごえは、大地と海と空をつつみ、宇宙ぜんたいが、人間の偉大さをうたっているかのようだ。この詩は、もっとも本質的な意味で、政治詩であるが、詩人の内面的な、個性的な生活が、力づよい調子でうたわれている。この詩は、レアリズムが詩人のうたごえを束縛し、弱めるどころか、詩人の個性的な創造をうながし、どのような自由を詩人にあたえているかを、あかしたてている。『眼と記憶』は、フランス文学における、もっとも偉大な詩のひとつとして残るであろう。

(『樹木と果実』1956年5月号)


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コメント
この記事へのコメント
力強い文章ですね…!レアリズムというのは現実を変革し得る詩なのですね!アラゴンさんの詩を読みたくなりました。
2020/12/02(水) 19:21 | URL | 板製造マン #/tFE2JW.[ 編集]
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