
「昭和21年2月11日。大島博光さんに誘われて長野市の図書館へ出かけた。党の再建・結成大会。途中で博光さんが「詩を書くから朗読しないか」と言ってその場で詩を書き上げた。私が壇上へ昇って、その詩を読んだ。その会議が終わった後、大島さんは入党申込書を書いた。ガリ版刷りの「フランスの起床ラッパ」を見せ、ルイ・アラゴンの名を教えてくれた博光さんを兄貴、あるいは父親のように思っていた自分も、一緒に申込書を書いた・・・。」
はっきりと昭和21年2月11日と言う日付を記憶されていた。
22年松代大本営工事に係わる隠匿物摘発の戦いをやった。メガホンで呼びかけて歩き、家々の戸を叩いて「出ろや!」「出ろや!」と触れ回って、それで500人
くらいが集まった。・・・。
当時の様子が、目の前に見えるような話が4人の方の口から語られました。

町村合併の問題があって、何回か村民大会が開かれた。「議長」を決めてやる会議なんて当時の村の人たちは知らなかった。静江さんが子どもをしょって来て、「はい議長!」と手をあげ、矛盾点や問題点を突く。どういう返事をしたら良いか分からない。聞いていた人は、会議の持ち方の勉強になり会議が新鮮に感じられた。それにしても、静江さんの声は透き通ったと言うか良い声だったなァ・・・。
館長が持参した1950年発行の「西寺尾新聞」を見ると、「それは照るちゃんがガリ切りをして、私が農協で印刷したものだ」という事実が分かる驚きの一瞬もありました。

小学生だった私は犬かきくらいしか泳げないのに、男の子に混ざって、千曲川の向こう岸まで渡ろうとした。途中で深みにはまって溺れかけた。そのとき、子どもたちの騒ぐ声を聞き、駆けつけ助けてくれたのが博光さんだった。絵を描きに千曲川へ来たのだ。それ以後私は博光さんは命の恩人とおもっている。博光さんは沢山本を持っていた。黒い表紙に月見草が画かれていた清水すみ子の「ささやき」=当時は死にたくなる危険な本と言われていた=を貸してもらって読んで、帳面に全部書き写した。・・・

戦後「新詩人」が発行されたが、博光さんは参加しなかった。
「歌声」を編集発行した当時住んでいた馬場町の家は、「大本営地下壕工事の工作隊の隊長が住んでいたあと」で、夏休みに大学から帰省したおり博光さんに「すき焼きをご馳走になった。松尾芭蕉の俳句をフランス語に訳した物を見せてもらった。博光さんは穏やかな声音だった。奥さんがうんと若い感じだったのが記憶に残っている・・・」
その他、たくさんの話を聞かせていただくことができました。
戦争が終わって、大きく変わりかけていた時代、朝鮮戦争前後の民主主義弾圧の具体的な出来事の中の詩人博光の姿が部分的ではあっても垣間見ることができました。
屋代高校時代に書かれた「作文清書帳」が見つかり、館長に見せていただくこともできました。
単に「博光に係わる」事にとどまらない、歴史の記録として残したい貴重な話を聞くことができました。
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