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詩誌『歌ごえ』について(五)

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詩誌『歌ごえ』について(五)
                                           大島朋光

 自分の作品や仕事をまとめることにまったく無関心だった大島博光は、『歌ごえ』についても何も語らず、創刊号一冊のほかは何も残していません。しかし、『歌ごえ』は大島博光が戦後最初に手がけた詩誌であり、戦前プロレタリア文学運動に参加した錚々たる書き手が執筆しているなど、当時の文学運動を知る上で資料的価値があります。『歌ごえ』発行までの経緯はどうだったのでしょうか。

 戦後の新しい歩み

 戦争末期、詩誌『蝋人形』が廃刊されたため郷里に帰り、結核の療養をしていた大島博光は、一九四五年八月の敗戦を機に自分の編集した『蝋人形』をすべて廃棄し、新しい歩みを開始します。中心は日本共産党への入党と新日本文学会への参加です。
 『新詩人』に参加
 『新詩人』は一九四六年一月、地元長野の詩人と長野に疎開していた詩人が中心となって創刊した詩誌です。戦後最初に発行され、有力な詩人が執筆し、小出ふみ子により長く継続した(一九九四年まで)ことで有名です。当初の同人は田中聖二(信濃毎日新聞社)、穂苅栄一、玉井賢二、竹内薫平、岡村民、大島博光、小出ふみ子、篠崎栄二、鈴木初江ら。編集同人として参加した大島博光は、創刊号から翌一九四七年十一月号まで詩や詩論、アラゴンの訳詩など八篇を執筆しています。
 一九四六年二月、大島博光は長野市で開かれた日本共産党の演説会で入党、日本共産党更埴地区委員会結成に参加します。同年行われた戦後第一回総選挙では松代近在の村々で応援演説をしました。

 新日本文学会の中央委員に

 新日本文学会は戦前のプロレタリア文学運動に関わった作家を中心に、民主主義文学の創造と普及を目標に一九四六年十二月に結成されました。大島博光は中央委員として参加しました。
 新日本文学会会員名簿 (一九四八年五月一日発行)によると、長野支部には次の六名がおり、代表が成澤栄一です。
 大島博光(長野県更級郡西寺尾村)(中央委員)
 高倉テル(同 小県郡別所村かしわや旅館)
 田中忠一郎(同 更級郡川柳村上石川)
 成澤栄一(同 長野市南県町 信濃每日新聞社內)
 長谷川健(同 埴科郡松代町)
 長谷川淌(同 更級郡川中島村)
 高倉テルは大島博光が応援した戦後最初の総選挙の立候補者(当選)でした。長谷川健は地元松代の親しい友人。長野県内では他に松本支部五名、諏訪支部五名、飯田支部二名がいます。
 一九四八年、新日本文学会は支部と準備会の数三三、会員五七〇名という大きな組織になり、支部の強化などを目的として全国巡回講演を企画しました。長野市は同年八月に設定されて壷井繁治、大島博光が参加し、若手の詩人たちを集めて座談会が開かれました(青山伸の論述)。

 『歌ごえ』創刊(一九四八年三月)

 西條八十主宰の『蝋人形』の編集に携わり、プロレタリア文学運動とは無縁だった大島博光が戦後、新日本文学会に参加したことは新しい時代の詩人としての再出発を象徴するものです。その活動の第一歩が『歌ごえ』の創刊でした。民主的詩運動の高揚を目標に発足した『歌ごえ』は執筆者の大部分が新日本文学会に加入した詩人たちでした。
 執筆者を分類すると『新詩人』関係、戦前の『新領土』『蝋人形』関係、新日本文学会関係の三グループになります。『新詩人』関係では、高橋玄一郎、穂苅栄一、岡村民、鈴木初江ら、『新領土』『蝋人形』関係は関口政男、武内達郎、奈切哲夫などで、あわせても十名たらず。一方、新日本文学会関係は壷井繁治、サカイ・トクゾウ、金子光晴、大江満雄、小野十三郎、淺井十三郎、岡本潤、近藤東、遠地輝武、佐藤さち子、上田進等々で圧倒的に多く、内容も新日本文学会の運動と連携するものとなっています。新日本文学会はアンソロジー『新日本詩集』を二巻(一九四八年版と一九四九年版)発行しています。編集委員は壺井繁治、金子光晴、遠地輝武、近藤東、岡本潤、坂井德三、中野重治、秋山清、伊藤信吉、中野秀人、植村諒の十一名ですが、前半の六名が『歌ごえ』に主張やエッセイ、詩を書いており、中心的メンバーの発言の場となっていることがわかります。

 『歌ごえ』が果たした役割

 詩人の青山伸が「二十三年一《ママ》月、大島博光編集による詩誌『歌ごえ』が長野市から発行された。これには社会主義或は民主主義の詩人らが集り、自由、平和、独立の名のもとに、戦争中、うたう事は勿論、沈黙さえもゆるされなかった、弾圧された詩人たちが、高らかにうたい始めた。この『歌ごえ』と大島博光の人間的魅力が相ともなって、この北信地方の労組や地域サークルの詩人たちへの刺戟となり、大島を中心とした若い詩の書き手が力強く育っていった、記念すべき詩誌とも言える」(青山伸「戦後・長野県詩人の活動 北信地方」『長野県年刊詩集一九六〇年度版』長野県詩人協会発行)と書いています。新日本文学会に結集した詩人たちを中心に作品や主張を収録した点と若い詩人たちに刺激を与えた点で役割があったと考えられます。

 上田進「ソヴェートの詩」に関して

 『歌ごえ』一号〜三号に連載された上田進「ソヴェートの詩」は彼の遺稿ではないかと前号までに書きましたが、本稿は「ロシヤ文化の研究 八杉先生還暦記念論文集」(岩波書店 昭和十四年)に収載してありました。上田進は闘病生活のすえ前年二月に没していますので、直接の執筆依頼ではなく関係者を通して得た原稿ではないかと考えられます。その場合、ロシア文学の先輩にあたる谷耕平(『歌ごえ』四号に「長詩 農奴の死」を執筆)が『新日本文学』一九四七年九号に「上田進の歩いた道」を書いて追悼していますので、彼が紹介した可能性があります。

 『歌ごえ』五号以降は発行されたのか?

 『歌ごえ』は四号までは国会図書館、近代日本文学館などに所蔵されていますが、五号以降は図書館の検索では見つかりません。しかしこの時期、大島博光は『歌ごえ』の編集発行を活動の中心に据えており、半年分と一年分の購読予約を募って一号から四号までほぼ毎月発行していたこと、四号巻末の投稿規定及び編集後記も次号の発行を前提にしていることから、以後も発行されていた可能性はあります。また、『日本詩人全集』第七巻(小野十三郎編集 創元社 昭和二十七年十二月発行)には大島博光の詩が五篇収載されていますが、「草むらの中で」「わたしは歌いたい」「灯の歌」の三篇の出典が『歌ごえ』と記されています。これらの詩は『歌ごえ』一〜四号には載っていませんので、五号以降に掲載されたのかもしれません。
 この年(一九四八年)の九月に大島博光は長野市吉田町から松代町近隣、西寺尾村の実家近くに転居し、十一月に次男秋光が誕生。その後、一九五〇年二月に三鷹に転居し、五二年二月に詩誌『角笛』を創刊します。長野で知り合った小熊忠二、立岡宏夫ら若い詩人の協力を得て。(完)
                                          二〇二〇年九月 

(長野詩人会議『狼煙』93号)

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