ゲルニカ
一九三七年一月、スペイン共和国政府はその夏パリでひらかれる万国博覧会のスペイン館を飾る壁画をピカソに依頼し、ピカソはそれを受諾する。
スペインの共和主義者たちは、その壁画がゴヤの「五月二日」のような政治的にも有効な作品となることを望んでいた。ホセ・ベルガミンはそれを催促するように書いている。
「わたしはこんにちまでのピカソの絵画をかれの未来の作品への序曲とみなしている。わたしはピカソを未来の独立不羈《き》で革命的な真のスペイン人民画家とみなしている……われわれの現在の独立戦争は、むかしの戦争がゴヤに与えたように、ピカソに、かれの絵画的、詩的、創造的な天才のいっそうの充実を与えるであろう。」「カイエ・ダール」一九三七年一〜三号)
スペイン館の壁画をひきうけたものの、ピカソはなかなかその仕事に手がつかなかった。この年の一月に「坐った女」を描き、その後の数ヶ月間に、いくつかのドラ・マールの肖像や静物を描いているが、そこには政治的な意図をもったものはほとんどない。しかも、この一九三七年一月の日付をもつ「坐った女」は、ピカソが恋びとたちを描いた肖像画のなかでも、もっとも優しく、もっとも陽気なもののひとつである。
こうしてピカソのもっとも有名な作品となる壁画は、「ダンス」や「アヴィニヨンの女たち」のように、念入りな仕上げ、芸術的傾向や気分の変化から生まれたものではなく、ましてや計画された作品でもない。それはじつに、スペイン戦争のもっとも残酷な悲劇にたいする画家ピカソの反発から生まれたイメージである。このイメージのなかに、数年来のピカソの作品のなかに現われていた多くのテーマやモチーフが結晶することになる。
その悲劇──世界に衝撃をあたえたゲルニカの悲劇は、一九三七年四月二十六日に起こった。ビスカヤ湾岸からおよそ十キロの地点にある、バスクの小さな町ゲルニカは、フランコを支援するナチス・ドイツ空軍によって──精確にはフォン・リヒトホーヘンのひきいるコンドル部隊によって、爆撃され、全焼し全滅した。ゲルニカがなんら戦略的な要点でもなく、ほとんど全市民が犠牲になったことで、衝撃はいっそう大きかった。
四月二十九日のロンドン・タイムスは報じている。「戦線からはるか後方にあるこの無防備の町にたいする爆撃はまさに三時間半に及んだ。ドイツ軍機の急降下爆撃によって町に投下された爆弾はおよそ五〇〇キロに達した……戦闘機は町のまわりの畑に避難した町民たちに機銃掃射を浴びせた。町の議事堂をのぞいて、ゲルニカじゅうがたちまち炎に包まれた。議事堂にはバスク人民の古文書が保存されており、むかしスペイン王たちが住民たちの忠誠の誓いとひきかえに、ビスカヤ地方の民主的権利の保証を誓った、ゲルニカの有名な『自由の樫の木』がたっていた」(一九三七年四月二十九日付「タイムス」)
(つづく)
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