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青森だより(下) (沙和宋一)

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秋田雨雀が青森市新城に疎開中に住んだ家(淡谷悠蔵氏の離れ)<秋田雨雀日記第四巻>





 青森だより
                  沙和宋一

 「支那事変」から敗戦の日まで、われわれの地方には厳密な意味において文学もなければ文学運動もなかった。「支那事変」勃発後間もなく、反戦カンパを行い、人民戦線運動を行ってきたとの理由で、われわれの雑誌「東北文学」とその同人達が弾圧されたが「東北文学」は勤労者作家とその広範な盟友を組織したわれわれの地方の唯一の機関であっただけに、その打撃も深刻であった。日本文学報国会編の「文芸年鑑」によると、青森の文化団体は、他方に比して圧倒的に多いけれども、もちろんあれは戦時中文化運動が特に青森県においてさかんであったためではなく、封建的官僚主義がいかに蛮威を揮い、形式的な机上組織をのみこととしていたかを物語るものにすぎぬ。じしつこれらの組織は、翼賛会支部がその上部に成績を誇示するために捏造した有名無実のものが多く、とくに文学の面においては、なんらの活動を示さなかった。またわれわれが地方で動く余地など殆どなかったのはいうまでもない。渡辺順三氏等の「短歌評論」の流れを汲む雑誌「出帆旗」の竹村章、新谷良樹君等は治維法で公判へ送られ、私ごとき戦時中逃避と韜晦に跼蹐(きょくせき)して、自らを歪めねばならなかった愚かしさを今日恥ぢている作家すら戦時中二回、延一年七ケ月の拘禁の憂目を見、淡谷悠蔵氏も東郡新城の彼の山荘に始終軟禁されていたのである。秋田雨雀氏と上田進氏が黒石と堀前に疎開したのは敗戦前年であったが、氏等もまたおのおの閉ぢこもって、狂暴な風雪を忍ばなければならなかった。
 私は昭和十九年の夏、検挙される約一月前に黒石町の秋田先生を訪ねたが、あのころの先生と現在の先生とでは見ちがえるほど元気になり、若返ってきた。秋田先生は終戦後間もなく黒石町から東邦新城の谷悠蔵氏宅に身を寄せられ、青森市戦災者大会、および全国にさきがけて人民戦線の提唱をした青森県社会党県連結成大会席上に、大衆を激励し、青森政治学校長として「民主主義獲得の歴史」「近代日本文学史」「共産主義理論とその建設」「アメリカ、ソ連の教育の比較」等の講義をされている。
 空襲で曠野と化した青森市の駅前通り、急づくりの二階建の、假屋が青森政治学校である。労組、消組、農組、社会党事務所との合世帶で、毎週三回、午後六時から開講、若い男女の熱心な聴講生があつまり、この三月末に第一期の講義がおわる。積雪の悪路を一里余、雨雀校長は徒歩でやってきては、疲れも見せず、時々若い私などと一緒に毛布をかぶって雑魚寝をしたりする。人民としての正しい知識慾に飢えた青年たちのうちには、奥羽線で青森から二駅、東北線で二駅の遠方から往復の路を徒歩でやってくる人たちもある。二月十八日からは淡谷悠蔵氏の「マルクス資本論」の講義がはじまった。
 二月九日青森市文化協会が生れたのも同じ場所である。これは戦時中から存在している県內の文化団体や、戦後簇生しつつある夥しい文化団体の全県的連盟組織の提唱者たる責任をもつて生れたのであるが、秋田雨雀氏を顧問に、委員長淡谷悠蔵を中心として、つぎの諸部門を組織した。文化部(沙和宋一)、演劇部(福士勝衛)、国際文化部(南西藤太)、杜会科学部(藤井正次)、美術部(濱田正二)、その他で、文学部はすでに、二回の座談会を開き、新日本文学会支持の方向を辿り、演劇部は満州事変中弾圧解散を強いられた「新興舞台」を復活すべく、げんざい、ユーヂン・オニールの「鯨」、淡谷悠蔵氏の「終戦」の稽古をつづけている。
 なんといっても、焼野原のなかの文化運動である。会合の場所も少なく、炭火は乏しく、かつ仲間の生活條件はくるしいが、十年の文化圧殺のくるしい期間に蓄えたエネルギーと、明日の日本への渇望が、若い人達を駆りたて、私ごとき古顔と目される人間すらぢッとしてはいられない。

 新日本文学会青森県支部準備会は、中央の結成大会と同時に発足し、大会には祝電をおくったが、その活動はまだ緒についたばかりである。機関紙や本部ニュースの発行がおくれたせいばかりでない。交通連絡がまづいのと他の分野の活動に身体を割かれることが多かったからである。事務所を弘前市におき、私自身は黒石町に戦災疎開していて青森市と往復している日常なので、思うような活動がまだはじめられていない。にも拘らず、日刊新聞およびわれわれによって出しているタブロイ,ト型の「週刊自由」の呼びかけによって、会員申込は八十数名におよんでいる。支部はできるだけゆるやかな規約を設けて一切の文学愛好者を網羅していく方針で、職場、地域の研究会座談会合評会を通じて作家育成につとめ、ともども現実から教訓を汲み、多くの本部会員をつくるようにしたい。前記の青森の文学会合も、黒石町で黒石文学会が二、三、四の三ヶ月に亘って創作指導講座をひらいているのも、この希いのそとにはあり得ない。適当な人がないので私がそれを引受けたが、当分少々気まりが悪いのを我慢してつとめてゆくよりほかはない。黒石町には北山六智夫、山田諒三郎、対馬秀緒、石澤龍子らの旧「東北文学」の僚友や、新しい人では淡谷日出夫氏らが熱心にやってくれているのであるが、これらの各地の動きを通して、新日本文学県支部結成大会へ持ってゆきたいと思う。秋田雨雀、上田進、淡谷悠蔽、竹村章、品山彌千江、大澤清三氏らをはじめ、頼りになる人が多いので心づよく、このレポを認ためている間にも、三月上旬の支部大会、文芸講演会の計画が進められている。
 青森の政治学校のほかに、弘前では共産党地区委員会による杜会科学研究会があり、女性文化の会があり、八戸市にも、上北郡七戸町にも同じ形のものが生れ、黒石町では弘前中学出身の進歩的青年層による自由大学の講座がはじめられようとし、南郡浪岡消費組合でも自由講座が開かれている。これらの啓蒙運動に、作家の参加が積極的なのは注目すべきで、前記の人達のほかに、石坂洋次郎氏や太宰治氏が動いている。
 演劇運動は、黒石町の長內和夫氏らによって口火が切られ、一月二十八日の黒石劇場における淡谷氏作「終戦」は、復員軍人の混沌たる心境に大きな示唆をあたえる農村劇として二千の観衆を感銘させた。なお演劇団体は青森の「新興舞台」、七戸町の「第一劇団」、弘前の久藤達郎、木堂敬三氏らの研究団体があり農村にもまたぞくぞくと生れつつある。
 以上こんかいは、はなはだヂャーナリスチックな報道に止めたい。至るところ活気横溢しているのであるが、反省と整理の契機も可成りあるのではないかとおもわれる。一定の好ましい秩序と目標が、それぞれのものとなるのはむしろこれからであろう。お互につとめたい。
(『新日本文学』一九四六年四月)

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