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峠三吉と『原爆詩集』(下) 増岡敏和

ここでは、「峠三吉と『原爆詩集』(下) 増岡敏和」 に関する記事を紹介しています。


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<第4回反戦・詩人と市民のつどい」における講演 1984年6月 上田市民会館>

(『信州白樺』第61・52・63合併号 1985年2月)

ひまわり





 峠三吉と『原爆詩集』
                                増岡敏和

 峠三吉は『原爆詩集』一冊を遺して三十六才で死にました。峠三吉といいましても余り知られておりません。『原爆詩集』を読まれた人も少ないかと思います。青木書店から出ている文庫は四十数版、新日本出版社『にんげんをかえせ』は六刷になっています。若い人たちにひろく読まれているそうですが、若い人にきいても知らない人が多い。しかし、「にんげんをかえせ」という言葉を知っているかとききますと、殆どの人が知っています。毎年八月になると、この詩が口の端にのぼります。

 ちちをかえせ ははをかえせ
 としよりをかえせ
 こどもをかえせ
 わたしをかえせ わたしにつながる
 にんげんをかえせ
 にんげんの
 にんげんのよのあるかぎり
 くずれぬへいわを
 へいわをかえせ

 という詩です。これをそらんじている人は少ないかも知れないが、「にんげんをかえせ」といえば知っている人が多い。すばらしい言葉であります。この言葉とともにその詩人峠三吉の名をも今日からひろめていただきたいと思います。
 私は、広島市にいて、朝鮮戦争をはさんで、彼が『原爆詩集』を書いたころ一緒に行動しました。「われらの詩の会」や反戦詩歌人集団をつくって、サークル運動をやっておりました。
 短時間ですので、峠三吉の人となりと『原爆詩集』の特徴について話したいと思います。

 峠は、大正六年二月十九日に大阪の豊中市に生まれ、本名は三吉《みつよし》と読み、昭和二十八年三月十日に死んでいます。ことしは没後三十一年目にあたります。去年は没後三十年を記念した行事が、広島県文化団体連絡協議会や広島詩人会議の手で行われ、半年間にわたって、墓前祭、『原爆詩集』の復刻、遺品展、演劇「河」の上演などおこなわれました。
 彼の「にんげんをかえせ」という詩碑は、広島の平和公園の中に建っています。原爆慰霊碑には、「安らかに眠って下さい、過ちは繰返しませぬから」と刻まれていますが、だれが過ったのかあいまいです。峠三吉の詩碑は、その近くの平和記念館北側の緑地帯に建っています。そこで彼は「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ」といまも叫んでいます。六月十日といういま頃の季節には、まわりのバラの花が咲きほこっているはずです。ヒロシマへ行かれたら訪ねてもらいたいと思います。
 峠三吉は、幼少より病弱で喀血を繰返しております。小学校を出て広島県立商業学校に進みましたが、在学中に喀血します。昭和十年に卒業して広島ガス会社へ入社しましたが、肺結核と診断されて療養生活に入ります。これは誤診だったんですが、当時は肺結核には特効薬がなかったので、彼は後二〜三年の生命であるという状態で生きます。そしてその二〜三年刻みの生命を十年以上続けます。その間に、自分が生きている証《あかし》にということで、短歌、俳句、童話の勉強をします。この期間、若くして亡くなった母を慕う詩をたくさん書きます。そして音楽ではベートーベンを愛し、自分の叶わない山登りを夢みる、そうした精神生活を送ります。詩は十四歳から書きはじめます。当初は抒情詩です。愛とか、花とか五月の夕暮れを好んでうたいました。

 峠さんのご兄妹は五人ですが、そのうち三人は中国侵略反対の運動で共産党員に、二人の兄と一人の姉は共産党員または共産青年同盟の指導者になります。その影響も若干あって、戦争詩も若干書きましたが、人と人とが殺しあうのは反対であるとの立場でした。もう一人の姉さんはクリスチャンです。彼が青年時代、彼の父は二人の兄が監獄に入れられたので、三吉だけは社会思想に走らないで家を継いでほしいと考え社会思想関係の本を箱詰めにして彼の目にとどかないところに隠し、遠ざけます。彼は姉の感化でキリスト教を信仰し、昭和十七年に洗礼を受けます。従いまして、反戦思想の兄や姉を尊敬し、クリスチャンの姉を尊敬し、両方の影響を受けます。その間をゆれうごき内部葛藤をくりかえしますが、そうした彼の思想活動がその後の青年期をつらぬいていきます。
 それが彼の人となりとなり、表情にも現われて、痩せた少女のような顔はいかにも詩人らしい雰囲気を持っていました。
 私の、増岡敏和は、名前からして詩人らしくないが、峠三吉というと詩人らしいですね。
しかも、その心根が詩的でやさしかった。

 詩集『にんげんをかえせ』の中に「ある少年の手紙」という抒情詩があります。これはクリスチャンのお姉さんに捧げた詩です。この中に、

 姉上よ、貴女の深い愛情に反き、貴女の日毎の濃やかな心使いをもすべて無にしながら、私しの小さな命を私しはこうしてみんなに分けてしまいたいのです。何にも役立たぬ私しの命をせめて囲りの人達のひと時のかすかな喜びにでも費したいと、そしてそれが歓びなのです。

 とあります。要するに、みんなのかすかな喜びに身をむしりそえながら自分は稀薄になって死んでいこうというようなやさしさを満身にこめて抒情詩を作り続けたのです。
 それが戦後、急に変貌します。原因は第一に原爆です。投下直後、知人をたずねて惨状の中を歩き、また毎日介護に通ったりします。そして、半信半疑であった敗戦に口惜しさを覚えますが、一カ月ほどすると戦争に負けてよかったと思うようになります。
 このような心の動揺を抱えて青春を生きる中で、彼に決定的なものを与えたのは労働運動です。アメリカ占領軍が朝鮮半島で戦争を起こそうとしてミシンなどを製造していた日鋼広島製作所という工場を接収して、軍需工場に切り替えようとしたのです。そのために三千人ほどいた労働者の七百四十人の首を切ろうとしたのです。広島市の一万数千人の労働者はアメリカと警察と企業経営者に抗議して四〜五日間も座りこみをしました。私も参加しましたが、峠三吉も参加し、「怒りのうた」という詩をつくりました。昭和二十四年六月の雨の日です。その中で、これは何とかしなければいけない、やさしさだけを守っていたのではいけない、何かこの情りをぶつけて、戦争を再び起こさしめてはならんという憤りをぶつけていきたい、そういう考えになって、峠三吉の人生の転換がはじまります。そして転換を決定的にしたのは朝鮮戦争です。それが起こりそうだという時に、ストックホルム・アピールというのが出ます。原子爆弾を再び使用した国は戦犯とみなすというアピールです。
 その時私は二十歳の青年でした。私たちの世代は、先刻大島先生が話されましたが、大島訳によって紹介されるフランスのレジスタンに感銘していました。例えばアラゴンの『フランスの起床ラッパ』とか『異国の中の祖国』などです。私たちは峠三吉を中心にしてフランスのレジスタンスのようにたたかおうと、「われらの詩の会」をつくり、反戦詩歌人集団をつくって、昭和二十四年十月に『われらの詩』という雑誌を出し、昭和二十五年五月に『反戦詩歌集』を出しました。これは日本で戦後はじめての反戦、反米、反原爆の詩歌集です。峠三吉は朝鮮から手をひけ、武器を輸出するなと、その作品のなかの朝鮮を××、武器を××にして訴え、低抗しました。さらに、日本から、朝鮮からアメリカ軍は出て行けというビラを福屋デパートからばらまきました。そんなふうに反戦運動を盛り上げていきました。
 そんな時、昭和二十五年十一月三十日に、トルーマン米大統領は、再び朝鮮に原爆を投下することを考慮するというトルーマン声明を出した。その翌日、峠三吉は日記に広島市民として何らかの意志表示をすべきであると記しています。検閲を考慮して日記は簡単にしか書かれていませんが、この日から意識的に『原爆詩集』をつくっていくのです。
 はじめ、原爆で殺され、傷ついた市民たちを介抱しながら、やさしさを持って詩を書いていたが、やがてこんどは「二度と許さない」という原爆詩集へと向かったわけです。当時は詩でも写真でも、原爆の悲惨さを描くと、占領軍の出していた政令三一一号とか三二五号の違反で逮捕されました。それを峠三吉やわたしたちはあえてやろうとしたのです。
 やさしい彼は、最もやさしい者、最も弱い者を守ることを第一の願望としました。最も美しく、やさしく、弱いといいますと、われわれ男性にとっては少女なんですね。山口勇子さんにきいたら「わたしは少年よ」といっておりましたので、女性はそうなのかも知れませんが――。私たちは、少女を守ることが、青年として詩人としての生き甲斐だと思ったものでした。
 峠三吉も同じでした。ですから『原爆詩集』に出てくるのは、男は父とわずかな友人で、あとは全部が母であり、妹であり、少女なのです。『原爆詩集』には入っていませんが、「クリスマスの帰り道」という詩も原爆詩としてすぐれた作だと思います。標題と関係深い第四連だけを読んでみますと、

 通過して来たクリスマスの雰囲気は
 霧雨よりも優しく
 生き残った青春は
 風にゆらぐ樹木のように重い
 この重さに耐えて少女とわたしは歩く
 神があってもなくっても
 少女とわたしは歩きつづける

 という形で、自分の青春を少女と生きていこうとうたっています。
 『われらの詩』誌の創刊号の巻頭詩の「歌」という作品を次のように書いています。

 焚火は消され 血の痕は厳われた
 もう唄うまいわたしは 満ち足《たり》と夢と望みを、
 ……わたしは唄おう わたしの歌ははたはたと鳴る夜の旗、
 武器を押しやる 女の眼、

 ここでは、戦争にもっとも反対するのは女性である、だから俺のうたは女の眼を持ってうたうのだ、詩人らしく美しいもの、やさしいもの弱いものを少女に仮託して、人間の起ち上がっていく姿をうたっていこうとしたわけです。

 峠三吉の詩を読みながら、私は思うのですが、やさしさは、人間にとって大事な資質だと思います。しかし、やさしさは国家権力などのような強い権力にはたやすくうち破られる。しかしこれは、やさしさが破られるのではなくて、やさしさだけに埋没していこうとする人間の弱さが破られるのだと思います。
 誠実さや、やさしさを持っていた人が、何かに挫折させられた時、ともすれば人は、誠実だったから駄目なんだというようなことをいいますが、そうではなくて、その誠実さ、やさしさを守ろうとする力がなかったからなんです。力をつけるためには憤りがなくてはいけない、しかも憤りだけではなく、フランス・レジスタンスのように、「思っていたけどできなかった」というような反省をする生き方はしないという決意がいる。行動するための認識をきちんともっていかなければ、本当の意味の抵抗詩にはならない。戦争は嫌だという詩を書いても、それは厭戦詩で、それとしては人々によって評価されるわけですが、それにとどまらないでさらに行動にして組織されていって、日本の反核・平和の大きなたたかいにしていく、ということをわたしたちは考えることが大切だと思います。詩人だから詩を書けばいいだけではなくて、一個の政治社会に生きる人間としてそのようにやっていかなければならないとも思います。峠三吉は身をもってこのことを実践したのです。
 終わりに、『原爆詩集』の特徴である四点についてふれてみます。
 一つは、再びあらしめてはならないという憤りが詩に昇華されていること。かれは再び原爆を落とさせてはいけないと、核状況に対する人間の真向かい方を問うています。と同時に、戦後民主主義の鮮烈な響きを持ち、それをみごとに伝えています。占領軍が原爆のことをうたえば軍事裁判にかけるとおどかすものですから

 三十万の全市をしめた
 あの静寂が忘れえようか
 そのしずけさの中で帰らなかった
 妻や子の白い眼窩が
 俺たちの心魂をたち割って
 込めたねがいを
 忘れえようか!

 と書いて、お前らが落として殺したのだぞ、それが忘れられるかと訴えています。これが『平和戦線』という共産党の機関紙に公表され、市民の間に流されていく。「込めたねがいを、忘れえようか!」という詩句も多くの人々の口の端にのった時期がありました。
 二つは、「眼」という詩に代表されるように最高のリアリズム詩、原爆詩であるということです。他の多くの詩人も惨状を描きうたっていますが、その中でも一段と光ります。『原爆詩集』は完成した詩集ではない。かれは、小市民として、文化を通して、新日本を建設するために生きようとする思いと、それだけではいけない、階級性をつらぬいていかなければという内面の声との抗争の中で成長していくわけです。いいかえれば、自己変革と現実変革の統一をめざした格闘の書といえるでしょう。そのなかで「眼」のように完成したリアリズム詩が書かれてきたわけです。
 三つは、人間が起き上がってくる姿を描くことに本当のリアリズムがあると、峠三吉はいっていました。そのことです。静止状態で批判するのではなく、自らそこに参加して、こうあらしめたいとの主観を投入する能動的な面がなければ変革はできない。そういうことを高らかにうたい上げている。
 四つとしては、原爆投下後の惨状と、それに対する憤りを描いただけではなく、核の平和利用などに対する予見をしています。予見性のある作としては、「朝」とか「景観」とか「その日はいつか」などがあります。第五福竜丸がビキニの死の灰をかぶったのは彼の死後一年経ってからですが、「景観」は「ぼくらは大洋の涯、環礁での実験にも飛び上がる」と書き、

 ロンドンの中に燃えさかるヒロシマ
 ニューヨークの中で爆発するヒロシマ
 モスクワの中に透きとおって灼熱するヒロシマ

 と、今日の「人間の鎖」を思わせるような、世界的にひろがりを見せる反核の輪を予見したかのような作品になっています。また、「朝」という詩は、核の平和利用をうたい上げて完成に近い作といえましょう。一部分を読んでみます。

 歴青ウラン、カルノ鉱からぬき出された白光の原素が
 無限に裂けてゆくちからのなかで
 飢えた砂漠がなみうつ沃野にかえられ
 くだかれ山裾を輝く運河が通い
 人工の太陽のもと 極北の不毛の地にも
 うららかな黄金の都市がつくられるのをゆめみる
 働くものの憩いの葉かげに祝祭の旗がゆれ
 ひろしまの伝説がやさしい唇に語られるのをゆめみる

 とうたい、続けて

 豊饒な科学のみのりが/たわわな葡萄の房のように/露にぬれて/抱きとられる/朝を/ゆめみる

 と結んでいます。このような予見性を持った『原爆詩集』は、今日でも、これを越える原爆詩集はほかにないと思います。完成品ではないが、歴史に残るであろう現代詩という特徴を持っていると私は思います。
 彼がうたった詩、その特徴をみなさんとともに継承発展させていきたい。
 峠三吉が、私たちに呼びかけたように、人間の起き上がってくる力を信じ、描き、リアリズムの輪をひろげていきたいと思います。(筆者は詩人)

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