ジャック・デュクロの追想
アラゴン 大島博光訳
ジャックはもうこの世にいない……ところで、われわれの家族のものを、敬愛の念から、姓ではなくて名でよぶというこの習慣は、やがて半世紀にもおよぶわたしの党生活のあいだ、わたしをいつも面くらわせてきた。その間、多くのことが変わったが、この家族のような親密さは変わらなかった。そんなことを考えるのも、どうやらわたしにとって、この敬愛の念の現わし方がジャックにたいするほど自然に現われたことはないからである。そしてかれが眠りにつく墓のうえにはこの名だけが書かれるように、わたしは願う。そうすれば、これから長いこと、みんなが親しみをこめて、小声でこの名をつぶやくだろう。われわれを襲ったこの悲しい喪のときにあたって、いまわたしには、もっばら個人的なことしか語ることができない。かれの人生について語ろうとは思わない。それにかれの人生はまだ消えさっていない。かれの光は未来を照らす光だから。わたしはただ長い年月のなかのいくつかの思い出を語るにとどめる。
じつは最近、わたしはジャック・デュクロの書いたもの、回想録やそれをしのごうとしたかにみえるあの最後の著書《*》などを読んだり、読み返していた。わたしが一年前から進めている仕事のために、そうしなければならなかったのである。われわれの歴史(またしてもジャックとつぶやくように、わたしはわれわれのというのだが……)そのものである諸事件について、これ以上に正確で正しい評価は、ほかのどこにも見いだせなかった。かれの死の知らせは、わたしがかれの著書に埋まって仕事をしていた夜なかにとどいた。かれの著書には、けっしてわざとらしい調子もなければ、大げさな誇張もない。わたしはそれを参照して、わたしの記憶をたしかめ、吟味し、書いたばかりの文章に手を加えていた。
*『わたしが信じていること』グラッセ社一九七五年刊
ところでわたしは、ひどくピレネーなまりで、奇妙にフランス的な調子をもったあの有名な声を、よく聞いたものだ。歴史と同時に、わたし自身の人生でもあるあの長い年月をとおして、その声はわたしにむかって鳴りひびいたかのようである。それはジャック・デュクロのことばが大会や集会で、あるいは下院や上院の演壇で鳴りひびいたときばかりではない。その声はまた直接、わたしに向けられたかのようだった……わたしひとりに、と危うくわたしは書くところだった。なんといううぬぼれ!
一九三〇年代、ジャック・デュクロはわたしにとって、フランス史上の人物であることをやめて、かれ本来の人間──みんなのためにも、かれ自身のためにも人生を愛した、あの素朴で陽気な人間となった。わたしの言葉も心の動きも変わったあの時代、あえていえば、党の新しい政策がすべての党員にかならずしも理解されなかったあの時代に、かれはモーリス・トレーズ《*》とともに、表現上だけでなく思想上におけるあの必要な政策転換をすべてのものに納得させるため、最大の働きをした人だった。今日、「人民戦線」というあの新しい時代をふり返ってみると、――われわれ当時の人間が、どうしてあの時代をつねに思い出さずにいられよう――あの時代に、またしばしば、あの時代の諸事件の記述に、最初に、いつも色彩、歌、ことば、ひとことでいえば様式(スタイル)を与えたのはジャックだった、といわなければならない。わが国の革命的な諸時代について声高く語るようにわが人民によびかけたのは、かれであった。民族の思想の精髄を示すために、フランス大革命の思い出や言葉に助けを求めようと考えたのはかれであった。いまも香気を少しも失わない映画「ラ・マルセイエーズ」を、われわれといっしょにつくるように、わたしをジャン・ルノワール《**》に会いに行かせたのはかれだった……
* フランス共産党書記長。晩年に同党議長(一九〇〇〜一九六四):
** 映画監督。印象派の画家ルノワールの息子(一八九四〜)
そのころのある日をわたしは思い出す。わたしの母はわが党からはほど遠かったが、といって、彼女にとって党が身内だという事情は変らなかった……ある日、つまり一九三八年六月一日、サン・ドミニック街の「化学会館」の大ホールに、多くの作家、学者、芸術家、医師、教授、技師たちを集めて、大きな集会をわたしは組織した。そこへジャックが演説にきた。のちに「知識人の諸権利」という題名で発表されたその演説は、集会参加者に感動を呼び起こした。わたしの母もそこにいて、感激にふるえていた。母はわたしにいった。あのデュクロさんは、なんてお話がうまいこと! そしてまた、母にはなぜわたしが共産党員になったか、ついにわかったのである。一九四二年、南部地帯《*》で活動していたわたしからあまり離れぬようにと、彼女はカオールに住んでいた。三月の初め、彼女の生涯の最後の日、もうほとんど声も出なかったとき、母は力をふりしぼって、デュクロさんはどうしているか、とわたしに尋ねた……「あのひとの身の上に悪いことがなければいいが」それから二時間後に母は死んだ……
*第二次大戦中、ドイツ軍はフランスの中部以北を占領、南部はナチ・ドイツに協力するペタン政樹のもとにおかれた。カオールは南仏ロット県の都市。
わたしはジャックの消息を知っていたが、母に話すことはできなかった。かれは、パリからわたしのところに連絡の同志をよこして、ニュースや情報をわたしに伝え、またわたしの方は、わたしの活動報告をかれに送っていた。当時かれはパリ地方のどこか、小さな庭のある勇敢なひとたちの家に住んでいた。あたりに家宅捜索があったり、ドイツ軍のパトロールがやってくると、ジャックは穴のなかに降りて、上から石のふたをして、危険をのがれた。この、だれにもみつけられない隠れ家から、かれは党を指導していた。フランス中の全党を。
またそこから、ある日かれは、部厚な書類をわたしのところにとどけさせた。なかには、シャトーブリアン《*》で銃殺された人たちが、死ぬ前にかいた手記や手紙がはいっていた。かれの匿名のフレデリラックという署名のある短かい言葉がついていた──「これを記念碑的文献にせよ」と。だがそれはわたしの手には負えないし、その力量もないことを、わたしは感じた。そこでわたしは、近くにいる有名な作家たちをみつけようと努めた。「これ」について語ったことが、のちに影響を与え、この「記念碑的文献」をつくったのは、この作家だとか、あの作家だとか、ひとがいうような、そんな有名な作家を探したのである。
*一九四二年一〇月二二日、大西洋ロワール・アトランチック県のシャトーブリアンの収容所で、政治囚二七人がドイツ軍に銃殺された。
しかしアンドレ・ジッドは、さしあたって名まえを出さないとの仕事を頼まれるという名誉を一種の傲慢さでもって拒否した。いっておかねばならぬが、当時、わたしはニースに住んでいた。それからわたしはロジェ・マルタン・デュ・ガールのところにその書類をもたせてやった。かれはそれを読んで涙を流したが、要請された仕事をやりとげる自信はないといい、自分によせられた信頼には感謝する(かれを信頼したのがだれか、かれは知らなかった)、また後日、自分の書くもののなかには、このことのこだまが見いだされるだろう、とつけ加えた。そこでわたしは、ジャックにたいして、この仕事の責任がわたしにあるのを感じて、この任務にとりかかった。こうして、「殉難者たちのために――かれらの証人」とわたしがしるしたあのテキストが生まれた。それは途中で「殉難者たちの証人」となったが、そのとき、わたしはこのテキストをアンチーブ《*》にいたレヴィ博士のところに送り出してしまっていた。博士は一九三九〜四〇年の第二次大戦下のわたしの隊長で、かれはこのテキストをエマニュエル・ダスチェをとおしてアルジェ《**》に送らせた。こうしてそれはロンドン、ブラザビル、アルジェ、モスクワ、ニューヨーク……など、連絡のとれるすべてのラジオ局から放送された。このようにしてジャックのメッセージは全世界の耳にとどけられた。
*地中海岸にある南フランスの町。ニースに近い。
**第二次大戦中、アルジェには連合軍のアフリカ司令部とフランス国民解放委員会(のちにフランス共和国臨時政府)が置かれていた。
解放後、平和になってからの最初の上院議員選挙で、わたしはパリ第一区の「大選挙人」にえらばれた。選挙戦のさなか、一九四六年一一月二八日の夜、ヴォルテール広場の区役所で、わたしはわが党の候補者ジャック・デュクロとならんで坐っていた。ぎっしりと満員になったホールで、贈られた花束や花環や籠花など、信じられないほどたくさんの花のなかに、わたしたちは埋まっていた。そのとき、ちょっとばかり知りあいの同志がホールから、至急の話があるとわたしに合図した。演壇から降りながら、わたしは、かれのくちびるの動きから、ポール・エリュアールの妻ニュシュが死んだことを知った。ニュシュは前夜まだ元気いっぱいで、スルディエール街のわたしたちの家で、夕食をともにしたばかりだった。わたしが気も顫倒して、当時スイスにいたポールのことを想いながら、この恐ろしい知らせをジャックにつたえると、かれは大きな身ぶりで、まわりのおびただしい花々を指さしながら言った。「それをみんな彼女のところへ持ってゆくがいい」……「それをみんな持ってゆく」ためには、二台のタクシーに積みこまねばならなかった。うつろなアパートの住居に、ニュシュはただひとり、まるで眠っているように横たわっていた……
一九四七年、政府はマーシャル・プランによるアメリカの援助を受けることになった。フランス軍がアメリカ軍の制服を着てライン川を越えた。アメリカ軍の司令部がヴェルサイユ街道に設置され、朝鮮戦争帰りのリッジウェイ将軍がパリにやって来た。首都の人民はリッジウェイ反対の抗議運動に立ち上った。
一九五二年におこなわれた抗議デモの夜、ジャック・デュクロは自動車でモンルイユの自宅に向かって帰途についた。パリの城門にさしかかったとき、かれの車は捜索を受け、かれは逮捕された。人民に選ばれた国会議員を勝手に逮捕する口実に、当局は車のなかにあった二羽の鳩を証拠《*》にした。この二羽の鳩はフランスを占領したヒトラーのドイツ軍に抵抗する共産党の活動を四年間にわたって指導したかれに食べてもらおうと田舎の同志たちが贈ったものであった。御用新聞は、デュクロの食卓にのぼるはずの鳩が問題なのではなくて、わが党とモスクワの関係が問題だと書きたてた。まさにそのためにジャックはサンテの牢獄に入れられた。
*「二羽の鳩は普通の鳩ではなくモスクワとの連絡用の伝書鳩だ」と当局はでっちあげた。
獄中のジャックの求めに応じて、わたしは五篇から成る詩を書いたが、(「わたしがばらと言ったとき」「戦争」「パトロン」「陰謀」「たちあおい」)それはここに再録せずに、「共産主義的人間」第二巻に収められているこの詩の注釈を引用するにとどめよう。
「ジャック・デュクロがサンテに投獄されていたときに書かれたこの詩は、かれの思想の展開をきわめて忠実に追うという特色をみせている。文学の見地からいえば、それは政治思想を描こうとする新しいジャンルの試みである」
その詩はまた、政治的陰謀を告発したものであり、その陰謀の本質は、この詩が書かれてからまもなく、はっきりと露見したのである。
この詩がかかれたころ、ディディエ院長を先頭とした大陪審院法廷はジャックにたいするこの不法な逮捕をしりぞけてかれを釈放した。
ところで、わたしはまだ重要なことを話すのを忘れていた。一九四一年六月、ジャックはエルザ(アラゴン夫人、作家)とわたしをニースからパリに連れて行くために、案内人としてわたしの友人デュダックを送ってよこした。そしてわたしたちは境界線を越えようとして捕えられ、トゥールの牢獄に投げ込まれた。三週間、ドイツ軍に拘留されたのち、釈放されて、わたしたちはパリに着いた。そこでピニョンやポリツェルやダニエル・カザノヴ《*》ァのおかげで、わたしはジャックのところ――つまりフレデリックのところに、資料をとどけることができた……。こうして知識人対策にたいする党の指導が再建され、こうしてまた、『レ・レットル・フランセーズ』とよばれる新聞が、ジャン・ポーランとジャック・ドクールの編集のもとに発刊されることがきまった。
*エドアール・ピニョン(一九○五〜)、現代フランスの代表的画家、共産党員。ジョルジュ・ポリツェル(一九〇三〜四二)、哲学者、共産党員。ナチ占領下で抵抗運動に参加、逮捕、銃殺された。ダニエル・カザノヴァ(一九〇九〜四三)、歯科医。フランス女子青年同盟の創立者の一人。対独レジスタンスの女性英雄。アウシュウィッ収容所で死亡。
以上のことを、たしかにわたしはとりとめなく語った。しかもそれは、この数日来、ラジオや新聞で聞くことのできた、すばらしいデュクロ追悼のことばのたんなる付けたしにすぎない。そしてわたしは、ジャックという偉大なフランス人について追悼してくれたラジオや新聞に感謝する。恐らくかれは、そのようなことばを生存中に聞きたかったことだろう。だが少なくとも、親愛なジルベルト(デュクロ夫人)よ、これらすべてはあなたのために語られたことにもなろう。
(『ユマニテ』四月二九日)
ジャック・デュクロ フランス共産党政治局員・上院議員。かねて病気中のところ、四月二五日心臓発作のためパリの病院で死去。七八歳。
一八九六年、オート・ピレネー県ルエィ村に生まれ、一二歳で菓子製造の見習い。一六歳のときパリに出て製菓工場で働く。第一次大戦ぼっ発の翌年、一八歳で動員され、ヴェルダンで負傷。戦後パルビュスらが創設した出征兵士共和連盟に加入。一九二〇年共産党入党、二六年中央委員、三一年政治局員。二六〜三三年下院議員、三六年再選、人民戦線時代の下院副議長。四〇年七月トレーズと連名でレジスタンスのよびかけを発表。
パリ解放後、下院副議長。五九年以降上院議員。六九年大統領選挙に共産党から立候補しニ一・二七%の票を獲得。
(「世界政治資料」一九七五年六月)
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