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ロルカの生い立ち(3)

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 ロルカの生い立ち

 フェデリコ・ガルシア・ロルカは、一八九八年六月五日、グラナダ郊外の小さな村フィエント・ヴァケロスに生まれた。父は、フェデリコ・ガルシア・ロドリゲス、母は、ヴィセンタ・ロルカ・ロメロで、両親とも、アンダルーシア地方の、自由主義的で教養のたかい旧家の出だった。結婚の前まで学校の教師をしていた母親は、音楽と詩がたいへん好きだった。そして寛大で精力家であった父親は、土地の管理と家族の繁栄のために専念していたとはいえ、彼の側にもまた、ビクトル・ユゴーの大の愛読者であった父がおり、詩集を出した叔父があり、芸術にたいして独特な趣味を抱いていた多くの弟妹がいたのである。
 フェデリコが生まれてまもなく、家族は、のちにヴァルルビオと改名されるアスケローザの、ひろびろとした家に移った。(これがVega de Zujairaで、ここで「詩の本」の多くの詩が書かれることになる。)
 「わたしの少年時代は、田舎暮らしだった、──野と羊飼いたちと、ひろい空と孤独と。」のちに彼はこう書いている。少年のフェデリコ・ガルシア・ロルカは、調和と愛情にみちた環境のなかで成長した。小さい頃は、からだが弱くて、母親や祖母のイザベルや乳母たちに大事にされて育った。彼女たちに、彼は後年くり返し深い感謝の言葉をのべている。というのは、彼女たちは──とりわけ忠実な女中のドロレスは、彼のお守りをしながら、彼に民話を話したり、民謡を歌って聞かせたからである。
 彼は遊びさわぐ友だちから遠く離れて、風にそよぐポプラの音をきいたり、蟻の群とたわむれたり、大人たちの言いまわしや身ぶりをまねたり、花につつまれた聖母像のまえで、上等な布にくるまって、ミサを唱えたりして喜んだ。彼がミサを唱える時には、彼の信徒である弟や妹や、近所の子供たちやドロレスが、彼のミサをききながら、「ほんとうのミサのように」泣く、という約束がついていた。彼の最初のおもちゃは、人形芝居であった。
 家では、彼の母親から読み書きを教えられ、村の小学校では、家族の古い友人であるアントニオ・ロドリゲス・エスピノザ先生に教わった。

 一九〇八年九月、フェデリコは、アルメリアの中学に入学したが、その寄宿舎にはほんのしばらくいたにすぎない。悪性の咽頭の病気が重くなったので、両親は急いで自宅に連れもどした。家族はグラナダに行き移り、夏だけ、田舎で過ごすことにした。
 彼は、再び中学に入ったが、まじめに勉強するというよりは、夢見がちな生徒であった。一九一四年、大学入学資格をとって、彼は父親を喜ばせるために法学部と文学部とに大した情熱もなしに籍をおいた。学士号を得たのは一九二三年であった。

 一八歳の頃まで、彼の心を奪っていたのは音楽であった。彼は一才のとき、詩のリズムを追うことができ、二才で民謡をくちずさんだ。こういう音楽的資質に感心した母親は、彼にソルフェージュを教え、叔母のイザベルがギターを教えた。十才の頃から、彼はヴェルディの弟子のドン・アントニオ・セグラについて、ピアノと作曲の勉強をした。その頃、彼が出入りしたインテリの小さなサークルでは、彼は何よりも音楽家で通っていたのである。

 一九一六年は、フェデリコのスペイン発見の年であった。六月八日から一六日にわたって、グラナダ大学のマルチン・ドリンゲス・ベルエッタ教授の指導のもとに、アンダルーシア地方を踏破する考古学の最初の研究旅行をおこない、バエナ、ウベダ、コルドバ、ロンダなどの地を訪れた。バエナでは、その町の教授アントニオ・マカドーと初めてめぐり会うことになった。
 その年の十月から十一月にかけては、二回めの研究旅行を、スペイン北西部とカスチリヤ地方に試み、アヴィラ、メジナ・デル・カンポ、サラマンカ、サモラ、ガリシヤ、レオン、ブルゴス、セコヴィヤ、マドリッドなどの地を歩いた。とくに、カスチリヤ地方の胸に迫るような偉大さは、深く彼の記憶に刻み込まれたのである。「生まれて初めて、わたしは自分のスペイン人気質というものを、はっきりと意識するようになった。」と彼はのちに、友人のラファエル・マルチネス・ナダールに語っている。

 一九一七年、彼はパリに行って、音楽の勉強をつづけたいと申し出たが、それはあてにならない一か八かの冒険だといって、両親は反対した。こうして彼は、文学の道をすすむことになる。彼の最初に書いた「象徴的幻想」が、グラナダの「文学芸術センター」誌の特別号に掲載された。この年、彼は二人の年上の友人と深い友情で結ばれた。マニュエル・ド・ファラと、グラナダ大学の法学部教授で、有名な社会主義の理論家フェルナンド・ド・ロス・リオスの二人である。とくにフェルナンドは、フェデリコの人生の進路にとって、決定的な影響を与えられることになる。
 一九一八年、ロルカの最初の著書「印象と風景」がグラナダで出版された。それは大部分、あの一九一六年の旅行から着想を得たものだった。

 一九一九年の春、彼はフェルナンドの忠告にしたがって、マドリッドの「学生会館」に入った。それは、イギリスのカレッジの一種で、自由主義の精神にあふれ、新しい思想や芸術観にひろく開放されていて、スペインの知的選良が養成されていたところである。ここで、田舎出の若者は、いきなり近代世界と国際的な文化に接し、ヨーロッパの絵画、詩、演劇を革新するあらゆる前衛主義にぶつかるのである。

 ここで彼は、たくさんの重要な友人たちと巡り合う。当時、ウルトラ主義の創始者であったギレモン・ド・トーレ、モレノ・ヴィラ、映画家ビュニュエル、ダリ、ラファエル・アルベルティ、画家グレゴリオ・プリエット、ジォルジュ・ギレン、ペドロ・サリナス、ジェルド・ディエゴ等々。彼は若い芸術家たちとさかんに往き来して勉強し、自分の詩人としての、及び音楽家としての才能が周囲の者に魅力を与えていることに初めて確信をもつようになる。彼は自分の詩をすばらしく巧みに朗読したので、詩集を出す前に、すでに弟子ができた。彼はまたサークルで、田舎で蒐集したたくさんの民謡を自分の伴奏で歌った。じっさい、この「学生会館」がすっかり気に入ったので、彼は、一九二七年にいたるまで、冬と春の数ヶ月をそこで過ごしたのである。

 一九二〇年、彼は、エドアルド・マルキナを通じて、演劇界とかかわりあいをもつ。エスラバ劇場の座長で劇作家のグレゴリオ・マルチネスと友情を結ぶ。(この劇場では、シェークスピア、モリエール、イブセン、バーナード・ショオなどのレパートリーが上演されていた。)彼はまた、ウルグァイの画家バラダスや、後に彼の劇の背景装飾を描くことになるフォンタナールと知り合う。彼の詩に感激したマルチネス・シェラの求めに応じて、彼は、その詩とおなじ調子の劇「しゃくとり虫の呪い」を書いた。これは無邪気な妖精劇で、アルゼンチン舞踊を取り入れたにもかかわらず、ただひと晩、上演されただけであった。

 一九二一年、友人で出版屋のマロトーが、一九一八年来、彼の書きためた詩を彼の手からむりやりふんだくって、マドリッドで出版した。それが「詩の本」である。また、短い詩を集めた二つの組曲「亜麻色の娘たちの庭」と「鏡の組曲」とが、ジュアン・ラモン・ジメネスの編集する雑誌「指標」に掲載された。

 一九二二年、滅びさろうとしている偉大な民謡の伝統を救うため、ファラがカンテ・ホンド(Cante jondo)の祭りを組織した。(のちにロルカは自分の詩集にこの題名をつけている。)一群の熱心な実践家たちと作曲家ファラの友人、弟子たちとによって聴衆が集められた。フェデリコはその先頭に立っていた。とくに、二月一九日、彼は故郷の町の芸術センターでこの問題について講演を行っている。記念すべき六月一三日と一四日の夜、祭りはアルハンブラの大広場で催された。──泉水のあったこの広場は、不幸にもこんにち、なくなっている。歌のコンクールでの優勝者は、七三才のカンタオールであった。

 (大島博光訳 原著不詳)
 
 







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