かくて、このみごとな知性は、その厳密さと提作のすべてをあげて、未来への希望のない「詩のための詩」を構成し、生への倦怠をただ魅惑をつくりだすためにのみ歌う。
ここに来れば、未来もものうい。
澄んだ虫の音《ね》は、乾いた大気を掻き鳴らし、
すべては灼かれ、こぼち崩れ、なか空に消え昇り、
わが知らぬ怪しきものと変りゆく……
無に酔えば、人の世は茫漠として限りなく
苦悩もあまく、精神《こころ》は明るく澄みわたる……(大島訳)
マラルメは或る日ふと、「わたしの芸術は出口のないふくろ道だ。」というなげきをもらしたというが、ヴァレリイもまたこの「出口のないふくろ道」を、さらに遠くふかめ、そのゆきあたりのかべにつきあたるまで進んだといえる。このプルジョア個人主義の究極のかべにつきあったものには、何が残されているのであろう?この問いに答えるかのように、『ナルシス断章』のさいごの部分は、つぎのように意味ぶかく歌われている。
ああ、今や、照り映《は》えし今日の名残りも蒼ざめて、
薄れては過ぎし日の悲しき運命《さだめ》をさながらに、
いと深き想い出の奈落の淵に沈みゆく!
ああ、あわれ、肉体よ、われとわが身に溶けあえよ……
汝れが身に接吻《くちづ》けよ、汝が躯《み》をあげておののけよ!
汝れとわれとの、捉えがたなき恋も過ぎ、
身をふるわす戦《おのの》きに、汝れをば壊《こほ》ち消えやりぬ…… (大島訳)
これが『ナルシス断章』のフィナーレである。そうしてそれはまた究極にまで追求された個人主義の、――ナルシズムのフィナーレでもある。
リルケとおなじく、ヴァレリイに欠けているものは、あの人間的な愛であり、現実への働きかけである。ヴァレリイの愛とては、ただ知性の領域に、──芸術至上主義的な純粋詩の領域にのみ限られているのだ。これほどブルジョア・ヒュマニズムの限界をはっきり示しているものはない。
第二次大戦中、ナチスにふみにじられた祖國フランスとヒュマニティをまもる血まみれの抵抗運動のなかで、アラゴンはなお詩のための詩をもてあそぶひとびとにむかって『純梓詩に抗して』という詩で抗議している。
夢の泉よ そこに思い出は死に
飛びゆく美しい世界の色が渦巻く
おまえの水の甘い空ごと 詩よおお鏡よ
葦の間の作話《つくりばなし》 そこへ鳥たちは飲みにゆく
白黑まだらな鳥のほかは
傷ついた鳥が泉をさげすむとすれば
この燕こそは私の心 そして燕を狩る者は
その石弓を構えて私を狙うのだと知れ
私が欺瞞よりも生を選び
虚栄よりも血を選んだゆえに
アラゴンは「葦の間の作りばなし」と書きながら、ヴァレリイの『ナルシス断章』を想い浮べていたにちがいない。みずからは生の実践のなかに足ふみいれることなく、傷つくことのないヴァレリイ風な知性とその純粋詩にたいして、かつてこれほどきびしく美しい批判がなされたことはない。それはアラゴンの深い人間的な実践が、この美しい詩へと高まり、そこに鳴りひびいているからである。
もはや、ヴァレリイ風な無限の独白は終えられねばならぬ。今や、無限の対話が、──呼びかけが始められねばならぬ。(完)
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