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ヴァレリィとリルケ(4)

ここでは、「ヴァレリィとリルケ(4)」 に関する記事を紹介しています。


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(『詩學』1950年10月)

花壇



 このように、ヴァレリイは詩の問題をそれだけにきりはなし、詩そのものの内がわからのみながめ、說明し、詩作を詩人の頭脳のなかにおける知的な操作、「知性の祝祭」、「知的な練習《エクゼルシス》」としてのみ見る。そうしてこのような抽象的な考えから、あの「純粋詩」のイデエもうまれてくる。それはちょうど、人間を社会的現実からひきはなし、ぬきとり、抽象的な人間を想定し、世界をただ閉ざされた世界としてのみ考える態度と一致している。そこからあのヴァレリイの詩をつつむ死の世界のふんいき、形而上学的な絶頂の凍りつくような冷ややかさ、「永遠の冬」のふんいきが出てくる。ヴァレリイの愛した知性も、数学的精神も、厳密さも、ただ閉ざされた世界における抽象的操作のためにのみ駆使され、天空的なもの、死にちかいもの、あるいは優雅、魅惑をよびだす象徴のためにのみ役立っている。そこには、生きた現実のひびきはひとつもきかれず、詩人の熱い血のぬくもりはどこにもない。すべてはつめたい抽象の世界に身をひたしている。現実的な影像や肉感でさえも、すべてが抽象的な観念に奉仕する召使いでしかない。そうして象徴のあやを組みあわせ、精緻をきわめたヴァレリイの詩のはいごには、リルケのそれにもまして、さむざむとしたニヒリズムの深淵がくちをひらいている。リルケのように、より多く心情の道をたどろうが、ヴァレリイのように知性の道をおしすすめようが、これらの現実から身をひいた精神のゆきつくところは、おなじ無の深淵なのだ。
 まことにヴァレリイは、その古い唯物論に立った科学的精神、知性のすべてをもって、古い観念論を新しくつくりだし、またそれに奉仕している。
 純粋詩とその優雅と魅惑の創造のために駆使されたこの予盾のすべてをもって、ほとんど排他的な個人主義の極限をもって、ヴァレリイはじつに、爛熟したフランス・ブルジョアジイのもっとも保守的な精神と、その世界観とを代弁しているのだ。ヴァレリイ風なナルシズムはそのままブルジョア個人主義の究極的表現である。
 ヴァレリイは「精神の危機」のなかで、第一次大戦についての見解をのべているが、ヴァレリイはそこでも、戦争の歴史的な、社会的な、根本的な原因には少しもふれず、ただ戦争による破壊が、抽象的な精神にあたえたこんらんと無秩序とをとりあげ、危機にひんした精神をみずからなげき、消えさり、ほろびゆくきのう《﹅﹅﹅》の文化を惜しみかなしんでいる。「……われら文明なるものは、今やわれわれの命数に限りのあることを知っている。……」(中島・佐藤氏訳)
 まさに、第一次大戦――このブルジョアジイの帝國主義戦争をおおきなさかいとして、フランスのブルジョア文化も急速に退廃と崩壊の道をたどりはじめた。ヴァレリイは十九世紀的な、古典的なブルジョア精神のほろびゆくのを、みずから滅びゆくもののがわに立って嘆いている。それはまたヴァレリイ自身への挽歌でもある。かれの鋭い知性は、こ
のような自己の運命を見ぬいていたかのように、「精神の危機」のなかで書いている。
「……おさらばだ、亡霊たちよ、この世にはもうお前方の要はない。君の要もない。と。そうしてプロレタリアートの登場については、ひややかな皮肉と冷笑をもって、つぎのように予見している。
 「或る宿命的な明確さに向うその傾向に、進歩の名をさずけるこの世は、生の恩恵に死の利益をむすびあわせようと努めている。まだ或る混乱が支配してはいるが、もう少したてば、すべてが明らかになろう。その時ついにわれわれは、一つの動物的社会の奇蹟が、完全な、決定的な一蟻群が、出現するのを見るであろう”」
 なんという冷ややかな、絶望的な、ゆがめられた見とおしであろう。ここには、未来へむかって発展しようというヒュマニズムのかけらさえもない。ここにあるのは、プロレタリアートの偉大な登場にたいして、ほとんど敵意にみちた侮蔑とおそれとをいだくブルジョア知性のあるばかりだ。

(つづく)

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