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ヴァレリィとリルケ(3)

ここでは、「ヴァレリィとリルケ(3)」 に関する記事を紹介しています。


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(『詩學』1950年10月)

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  これが私の争だ。
  憧像に身をささげて
  毎日を歩み過ぎる。
  それから、強く広く、
  数千の根の條で、
  深く人生に掴み入る──
  悩みを経て
  遠く人生の外に熟す。
  時代の外に。     (茅野粛々訳)
 現実から、人生から、遠く身をひいて、ただ「あこがれに身をささげ」「人生のそとに、時代のそとに」自己を成熟させ、完成させようとするものは、けっきょく虚無へたどりつくばかりだ。たとえ、それを神とよび、永遠と名ずけようとも、それらは虚無のほかの呼び名にすぎない。「マルテの手配」の救いのない敗北と絶望は、やがてまた、「ドウイノの悲歌」のほのぐらい深淵につらなっているのではないか。そうしてこの深淵は、ひたすら自己を孤独な內部に追いもとめたリルケ自身をのみこんでしまったのではないか。閉ざされた世界をただ內攻的に追求するかぎり、いかに多くのまぼろしを積みかさね、イマージュをくみたて、観念をよびだしても、それらのすべてをもってしても、この深淵のひらいた口をうずめおおうことはできない。それはけっきょく、この詩人がぞくしている階級の思想と運命とに照応しており、それを忠賞に表現しているのである。
 リルケの文学は、その純粋な心情の美しさにもかかわらず、そのつつましやかな、女性的な、忍耐ずよい自己追求にもかかわらず、いな、それらのすべてをもって、ほろびゆくものの白鳥の歌となっている。その声は時として美しい。しかし、それは死を告げる美しさにすぎない。
     ★
 ヴァレリイは、イタリイへの旅行の途ちゅう、スイスのミュゾットの塔に住んでいたリルケをおとずれ、そのときの印象をつぎのようにのべている。
 「始めてあなたの知己を得たとき、そのなかにあなたを見出した、あの極度の孤独に、いかに私が驚いていたかをあなたは覚えてられるだろうか。……もの悲しい山々を見はらす広漠たる風景のなかに、極めて小さい城館が恐ろしいまでに孤立していた。くすんだ家具。狭い明り窓。物思いに沈んだ古風な部屋部屋。それらは私の胸をしめつけた。私の想像力は、あなたの心のなかに、自己自身並びに唯一なものであるという感情を何ものによっても乱されることのない、あらゆるものから孤立した一つの意識の無限の独白を聴かないではいられなかった。私はかくも隔離された存在を、静寂とのかくも悉ままな親交のうちに過される永遠の冬を、また追憶の力と、必ずしも常に幸を得ぬ言霊と、著作のなかに凝集されすぎた本質的な精神と、並びにあなたの夢想とに捧げられた、かくばかりの自由を、かつて、考えてみたこともなかった。
純粋時間のなかに閉じこもっているように私には思われた親愛なリルケよ」(河盛好蔵氏訳)
 このリルケにたいするヴァレリイのほめ言葉は、リルケの孤独と、孤独のなかにおける精神のいとなみを、きわめてヴァレリイ的な言いまわしでほめたたえていると同時に、このことばはまたヴァレリイ自身の本質の一部分をよく言いあらわしている。ヴァレリイがリルケを語りつつ、自己を語っているということは、この二人の詩人にある種の共通点・類似点のあることを示している。「孤立した一つの意識の無限の独白」「靜寂とのかくも恣ままな親交のうちに過される永遠の冬」──これらのことばはそのままヴァレリイ自身の世界を端的にいいあらわしているのだ。「自己自身並びに唯一なものであるという感情を、何ものによっても乱されることのない」「純粋時間……」──これはそのまま「テスト氏」の信条であり、ヴァレリイ的な「ナルシス」の時間ではないか。「ナルシス断章」にはつぎのように歌われている。
われは孤独! こだまと水とあこがれと
はた神々の、われを孤独に残せばや!
孤独かな……されど葉むれの垂る水のべに
ただずみ寄れば、やれとわが自己にめぐり会う……
この静寂われは自己へと沈みゆく!
わが魂は、絶えなんばかり身を伏して
すべりゆく白鳥にのみふさわしき
人気なきこの水に「神」をば求む!
この水に羊の群も寄りそわず、
もし、踏み入るものは見いださん
ほの暗き大地に口ひらく墓と死を……
 (大島訳)
 このナルシスのひたすらな自己目身への没入、自己を「神」としての追求。それは自己完成よりははるかに積極的な、意識的な、ほとんど排他的な、抽象的自我の追求である。他者への愛は、「ナルシス」においては侮蔑され、人間的な愛は貴族的にけいべつされている。このような純粋時間における純粋自我などというものは、ただ閉された象牙の塔のなかで抽象的に考えられたものでしかない。生きた歴史的な時間の流れから遠く身をひいて、純粋時間のなかにとじこもり、孤立した抽象的な自我と世界とを、静止的に見つめるというところから、あの歴史と外部世界を否定し、それらを無意味なものとする態度がでてくる。「『アドニス』について」のなかで、ヴァレリイはつぎのようにいっている。
 「いったい文学史のいわゆる教示なるものは、ほとんど詩篇生成の秘奥にはふれていない。あたかも芸術家の生活の、、看取しうる出来事がその作品におよぼすえいきょうなどは皮相にすぎないかのごとく、一切は芸術家の內奥において行われるのである。もっとも重要なるもの――詩神の行為そのもの──は事件や生活様式や出来事や、その他伝記中に現われうるすべてのこととは無関係である。歴史の推察しうることはすべて無意味である。」(中島・佐藤氏訳)

(つづく)


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