リルケについて
大島博光
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リルケといえば、わたしはいつも、ハンス・カロッサのことばを思いだす。それは、カロッサがリルケをおとずれたときの、その「訪問記」のなかにある、つぎのようなことばだ。
「……私がその家のまえに來ると、ちょうどリルケの方もそこえ近ずいて來るところだった。……彼を通りすがりに見かけた知らぬ人だったら、或る單純な考えこんだ人が、生活に疲れてわが家へぶらぶら歩を運んでゆくのだと思ったかも知れなかった。私が近ずくにつれて、彼の顔のつやのないのがますます強く目についた。大きな森の鳥の死ぬのを見たことがあるが、その鳥がこれに似た印象を残していた。異常な仕事に献身している人間が、またかつて異常に疲れた様子をもしていたということは、私には決して不思議にも思えなかった。……」(石中象治氏訳)
大きな森の鳥の死ぬ、それに似た印象……このような印象を、わたしはリルケの作品からも受けとらないではいられない。とくに、「マルテの手記」や「ドゥイノの悲歌」には、このような印象がつよくただよっているように思われる。それは、おそらく、とくに「マルテの手記」のなかでは、よく死が、いかにもリルケ風に語られていたり、マルテの病的な幻覚や不安や絶望が、救いのない暗い調子でのべられているせいでもあろう。しかし、わたしは、この死にひんしているものの印象といったものが、じつは、リルケの人と、その作品の本質とその運命とから、おおいがたく立ちのぼってくるものであり、それらに根ぶかくむすびついているものだと思う。
リルケがじっさいに貴族のまつえいであったかどうかは、うたがわしいとのことだが、かれ自身は、古い貴族のまつえいだと深く信じ、貴族のまつえいらしい生活態度をとり、またそのような作品をかいている。小説「最後のひとびと」や「旗手クリストオフ・フオン・リルケ」や「マルテの手記」の主人公は、いずれも貴族のまつえいであって、祖先の封建貴族たちの思い出が、たえずそれらの主人公にたちあらわれ、かれらの精神をやしない、かれらをささえている。マルテも、おちぶれはてた貧しい貴族のまつえいだが、かれもよく祖先の思い出にやしなわれ、その中世紀風な、幻想的な思い出が、いっそうマルテの没落と絶望をきわ立たせ、色どっている。しかし、そのゆえに、マルテは、まるで過去のむなしい重荷にうちひしがれて、未來へむかって発展してゆく希望も力もない。こうしてマルテは、ひたすら過去への思い出と、自己自身の內部とに、きわめて孤独にとじこもっている。かれの救いのない現在と絶望とは、かれが過去を生きているというところからうまれている。マルテは、もちろんリルケそのひとではないが、リルケの本質的なものが、マルテをとおして、この作品のなかにあらわされている。それは、自己を生きた現実の現在からひきはなし、きりはなし、ひたすら孤独なじぶんの內部にとじこもり、自己の完成をすすめという態度である。かれが「物」をうたい、「形象」をうたっても、それはみな自己の精神風景としてであるか、あるいは、自己の観念──神とか永遠とかをみちびきいれ、みちびきだすものとしてである。それが新しい造形的手法によろうと、新しい象徴的手法によろうと、その本質はふるい観念論であり、うしろ向きのロマンチスムの一種である。このような詩人が近代を、近代的都会を、ただ古い観念でのみながめ、おそれていたということは、当然のことだ。かれは近代のなかに生きることをおそれ、ついに近代を理解することができなかった。リルケは都会についてつぎのように歌っているのだ。
「大都会は真ではない。
日を、夜を、動物を、小兒を彼らはあざむいている。
彼らの沈黙は偽っている。彼らはまた
騒音と……事物とで偽る。」
「都会の人々は文明に仕えて、
平均と適度から深く堕落し、
その蝸牛の歩みを進步と言っている。
静かに歩むところを駆け走り、
娼婦のように感じ閃めき、
金属と硝子とで声高に騒ぐ。
日ごとの虚偽は彼らを弄び
最う自己の姿がない……」
(茅野粛々氏訳)
このようにリルケや、近代資本主義都市のいつわりと矛盾とをうたっているが、かれは、そのいつわりと矛盾のこんぽん的な本質にせまることができず、ただ貴族的な嫌悪によって、この現実から遠く身をひき、孤独のなかに、自己のなかに、夢想のなかに、過去のなかに、「神」のなかに、のがれ、とじこもる。このことや、リルケの貴族的な精神が、近代の市民都市にたいしてさえ反動的だったことを示している。
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ベルギィ近代の大詩人、エミイル・ベルアーランもまた、はじめは都会をおそれ、自己にとじこもり、自己をのみうたっていたが、やがてかれは立ちあがり、まず自己の周囲に目をむけ、外部世界を理解し、愛し、その教訓をうけとり、ついに、そのはげしい厭世主義から力づよい樂天主義へとうつり、病的なエゴイズムから、ひろやかな博愛主義へと発展することができた。こうしてかれは、ゆたかな自由な人間活動をうたい、うなりとどろく機械の美を、ばくしんする列車を、汽船を、工場を、停車場を、取引場を歌うことができた。かれは、かねをかぞえる銀行家をうたい、つるっぱしをふるう労働者をも歌った。それは、ベルアーランが人間の活動と努力と、その未來とにおおきな信頼をよせ、ヒュマニズムにはげまされ、近代の社会生活をとおして、人間性をうたいとろうとしたからだ。こうしてかれは、モダニズムの偉大な先駆詩人となることができたのだ。
なるほど、「マルテの手記」では、パリーの街と、そこに住むみじめなひとびととがえがかれている。しかし、それらは、社会的な現実としてえがかれず、社会的な関係とつながりのうちにとらえられず、ひたすらマルテという人物の絶望的な精神風景として、孤立的にとらえられ、断片的な画面としてえがかれ、けっきょく、それらも、マルテという病める人物の没落と敗北を色どり、うきたたせるものでしかない。そうして、マルテはまた、このような現実から過去への思い出にのがれいり、行為をともなわない心情だけの愛のなかに、その孤独なたましいをひたしている。そこには、生きた現在と未來へむかってひらかれている窓はない。つねに詩人たちをふるいたたせ、はげましてきたあのヒュマニィティの熱いほのほも、そこには燃えていない。現実につかみ入り、おどり入るかわりに、そこから遠く身をひいて、ただ閉ざされた自己のうちがわに、純粋をもとめ、その出口のない不幸と絶望とに病んでいる。このような人物が、まぼろしと夢想
と「神」のなかに、救いと生の幻覚をもとめてゆくのは、きわめて自然だ。
リルケはロダンから造形的なものの見かたを学んだ。対象を、物を、一本の木を、いっぴきの動物を、ひとりの人間を、くりかえし見つめ、見なおし、そこから、とつぜん、対象の実体的なすがたが浮びあがるまでに見きわめる方法をまなんだといわれる。しかし、かれは、このような方法を対象の真実にせまるリアリストとして用いず、ひたすら汎神論的に、象徴的に、イヂアリストとして用いている。対象は、そのリアルな場所から、いつかかれの夢想のなかにうつし入れられ、あるいは、その女性的な抒情の手だてにかえられてしまう。このような手法によって、リルケの詩は、ひとびとをあの夕ぐれのうすら明りのただよいのなかにさそいいれ、また空間に身をかろやかにただよわせるような、なにか観念的な宇宙感といったものを、ひとびとにあたえる。すべてが、ひそやかな夢の色どりをもち、やわらかな夢の光りにつつまれていて、それらは、疲れているひとびと、病んでいるひとびとの、よわいこころをさそうのだ。夢想に身をゆあみしたものは、ふたたび現実えたちもどったとき、もはや現実えたちむかう積極的なちからをうしない、骨ぬきにされる。
***
カロッサは、まえに引いた文章のすぐあとにつずけて、つぎのようにいっている。
「後に『ドウイノの悲歌』として有名になったあの勝利的な嘆きが、当時すでに彼の胸のなかにひびき始めていたことをすっかり知っていたら、彼の様子をもっとよく理解し得たであろう。あのような詩をたくらんでいる人は、しじゅう真珠取りのように、上層の圧力にひしがれて帰路をあやまるという危険をおかしておのれの魂の奥底にくぐりこまねばならなかったのだった。」
外部世界からまったくきりはなされた自己の內部のみをさぐり、そこから取りだされてくる「真珠」は、けっきょく「嘆き」でしかない。そうしてこのなげきのうしろがわには、すぐまた無の深淵が口をひらいている。この深淵はこの純粋のひとをのんでしまったのではないか。無ほど純粋なものはなにもない。
リルケの詩は、行為をうみだすどころか、行爲をうばいとるうまずめの詩だ。それは、ひとびとの目を現実からそむけさせて、空間へつれさり、あるいは、ただ自己じしんへととじこもらせる。そうして、その純粋な心情というゆうわくにみちたわなで、ひとびとの社会的なめざめをおおいつつみ、ふたたび「內なる生命」のふちにねむりこませてしまう。
リルケ風な夢をつつむうすらあかりも、その孤独をつつみまもる夕ぐれのしずけさも、もはやどこにも見あたらぬとき、──すべての象牙の塔がかたむき、かしがり、その根もとからくずれおちているとき、――二つの階級の対立がいよいよはげしく、その矛盾がいよいよ大きなくちをひらいているとき、なおリルケの作品が、社会的にどのような役目をはたすかは、おのずと明らかであろう。
リルケの作品は、けっきょく、深く病めるものの詩であり、かれがぞくした、そのほろびゆく階級のほろびの歌であり、「死んでゆく大きな森の鳥」のさいごの歌ごえである。
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