西條八十と『蝋人形』と大島博光
『蝋人形』は西条八十の創刊し主宰した詩誌である。昭和五年から十九年にかけて月刊で百六十三号まで刊行された。戦前の昭和では十四年余も月刊で続いた詩の雑誌は他にない。しかも百頁近いボリュームであり、詩を中心とした文芸総合誌として大きな意味をもつ。大島博光は早稲田大学卒業の昭和十年から約八年にわたって編集を受けもつ。大島が二十五歳から三十三歳の青年時代であり、詩人としての自己形成を進めた時代である。
○
『蝋人形』が他の詩の雑誌と決定的に異なるのは、西条八十という詩人の特異性に因ると云ってよい。
西条八十は象徴派詩人であり早稲田大学の仏文科教授であり、童謡や歌謡曲の作詞者でありという様々な顔をもち、しかもそれぞれの分野の第一人者であった。
また詩人は貧乏が相場の時代に、流行作詞家としていわば詩で食えた詩人であった。こんな詩人は少ない。
三号雑誌でなく『蝋人形』の出版が続けられたのも、なによりも西条八十の経済力があったからだ。
涙ぐましいような薄っペらな詩の同人誌とは違い、グラビア頁をもち百頁を越すような詩誌によって「詩」そのものの社会的価値を高めようという西条八十の意図もあったはずだ。
竹久夢二、河野鷹思、三岸節子と云った画家たちが表紙を描いているのも魅力の一つで、手にとって読んで見ようという気持にさせる詩の雑誌であった。
○
大島博光の名が『蝋人形』に現れるのは「アルチュウル・ランボオ伝」からだが、昭和八年の九月から連載が始まっている。大島の卒業は昭和九年なので、卒業論文の「ランボオ論」が、ランボオ研究者であった西条八十に認められ『蝋人形』の編集をまかされたというより『蝋人形』の「アルチュウル・ランボオ伝」の連載が先だったかもしれない。
○
『蝋人形』の編集者としてだけでなく翻訳詩、詩の批評など毎号のように大島博光の名が誌面を飾る。昭和十一年から昭和十七年にかけて西条八十は別にして大島は『蝋人形』の中心となって発表を続ける。さらに昭和十四年からは『新領土』に参加し楠田一郎と共に代表的詩人として認められてゆく。大島が二十四歳から三十二歳頃であり、最も有望な新進詩人として着実に歩みを進めていたものと思う。大島の『蝋人形』に発表した誌や翻訳については次頁に主なものをまとめてみたので参照されたい。
『蝋人形』は詩だけでなく、短歌、民謡、歌謡曲、小唄、童謡、小曲などの投稿欄が総頁の半分近くなる。詩の同人誌というより投稿誌であり、各地に支部もあって結社誌的でもある。戦時色が強まる昭和十三年には「戦時歌謡」欄も開設される。
国民詩人西条八十は『国民少年詩集』や『少年愛国詩集』『戦火にうたふ』『銃後』など多くの戦争詩を書く。
「サムライニッポン」や「支那の夜」「蘇州夜曲」「そうだその意気」など時局に合わせた流行歌が続く。極めつけは予科練の「若鷲の歌」 だろう。
○
大島は昭和十四年から『新領土』に関わり、永田助太郎らと『蝋人形』を行き場を失ったモダニズム詩の隠れ場所のようにしてしまう。
大島の編集した時代は『蝋人形』が最も輝いていた時代であるが、モダニズムの詩が最後の光芒を放ってゆくような時代であった。
西条八十は戦後になっても大島の編集時代の『蝋人形』について多くを語らなかったというが、二人の間には多くの想いがあったことは確かだろう。大久保駅近くの柏木の西条八十宅での八年間の『蝋人形』の編集時代は、若い大島の青春時代でもあるが、内面的には苦しい時代であったと思う。
(『狼煙』五八号 特集「昭和モダニズム詩と大島博光」より)
『蝋人形』は西条八十の創刊し主宰した詩誌である。昭和五年から十九年にかけて月刊で百六十三号まで刊行された。戦前の昭和では十四年余も月刊で続いた詩の雑誌は他にない。しかも百頁近いボリュームであり、詩を中心とした文芸総合誌として大きな意味をもつ。大島博光は早稲田大学卒業の昭和十年から約八年にわたって編集を受けもつ。大島が二十五歳から三十三歳の青年時代であり、詩人としての自己形成を進めた時代である。
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『蝋人形』が他の詩の雑誌と決定的に異なるのは、西条八十という詩人の特異性に因ると云ってよい。
西条八十は象徴派詩人であり早稲田大学の仏文科教授であり、童謡や歌謡曲の作詞者でありという様々な顔をもち、しかもそれぞれの分野の第一人者であった。
また詩人は貧乏が相場の時代に、流行作詞家としていわば詩で食えた詩人であった。こんな詩人は少ない。
三号雑誌でなく『蝋人形』の出版が続けられたのも、なによりも西条八十の経済力があったからだ。
涙ぐましいような薄っペらな詩の同人誌とは違い、グラビア頁をもち百頁を越すような詩誌によって「詩」そのものの社会的価値を高めようという西条八十の意図もあったはずだ。
竹久夢二、河野鷹思、三岸節子と云った画家たちが表紙を描いているのも魅力の一つで、手にとって読んで見ようという気持にさせる詩の雑誌であった。
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大島博光の名が『蝋人形』に現れるのは「アルチュウル・ランボオ伝」からだが、昭和八年の九月から連載が始まっている。大島の卒業は昭和九年なので、卒業論文の「ランボオ論」が、ランボオ研究者であった西条八十に認められ『蝋人形』の編集をまかされたというより『蝋人形』の「アルチュウル・ランボオ伝」の連載が先だったかもしれない。
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『蝋人形』の編集者としてだけでなく翻訳詩、詩の批評など毎号のように大島博光の名が誌面を飾る。昭和十一年から昭和十七年にかけて西条八十は別にして大島は『蝋人形』の中心となって発表を続ける。さらに昭和十四年からは『新領土』に参加し楠田一郎と共に代表的詩人として認められてゆく。大島が二十四歳から三十二歳頃であり、最も有望な新進詩人として着実に歩みを進めていたものと思う。大島の『蝋人形』に発表した誌や翻訳については次頁に主なものをまとめてみたので参照されたい。
『蝋人形』は詩だけでなく、短歌、民謡、歌謡曲、小唄、童謡、小曲などの投稿欄が総頁の半分近くなる。詩の同人誌というより投稿誌であり、各地に支部もあって結社誌的でもある。戦時色が強まる昭和十三年には「戦時歌謡」欄も開設される。
国民詩人西条八十は『国民少年詩集』や『少年愛国詩集』『戦火にうたふ』『銃後』など多くの戦争詩を書く。
「サムライニッポン」や「支那の夜」「蘇州夜曲」「そうだその意気」など時局に合わせた流行歌が続く。極めつけは予科練の「若鷲の歌」 だろう。
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大島は昭和十四年から『新領土』に関わり、永田助太郎らと『蝋人形』を行き場を失ったモダニズム詩の隠れ場所のようにしてしまう。
大島の編集した時代は『蝋人形』が最も輝いていた時代であるが、モダニズムの詩が最後の光芒を放ってゆくような時代であった。
西条八十は戦後になっても大島の編集時代の『蝋人形』について多くを語らなかったというが、二人の間には多くの想いがあったことは確かだろう。大久保駅近くの柏木の西条八十宅での八年間の『蝋人形』の編集時代は、若い大島の青春時代でもあるが、内面的には苦しい時代であったと思う。
(『狼煙』五八号 特集「昭和モダニズム詩と大島博光」より)
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