卒論にランボオを書いたら 吉江孤雁先生がほめてくれたんだよ 卒論の中でもここ何年ぶりの珍しいくらいの出来だって それで 西條先生が自分の雑誌の編集に引っ張ってくれたんだよ だから わたしを落とした先生なんか知らん顔をしていたよ 合わす顔がないわけだ
西條先生もとんだのを拾っちゃったと思ったろうよ アナーキストにはなると思っていたんじゃない? それがコミュニストになっちゃったんだから
先生はランボオを研究していてね 僕がランボオを卒論にしたら 吉江先生がほめてくれたんだよ 西條先生の先生が吉江孤雁先生だからね それで西條先生も評価してくれたわけだ
『深夜の通行人』くらいだね 戦争中に書いた中で いいものはできなかったよ
<『蝋人形』の編集時代に>
文壇へ出るチャンスもあったけれど その頃はそんなものと思っていたし
西條先生の誂えていた洋服屋が来て 僕も頼んだんだよ その頃八十円もしたよ
あの頃が華だったね(伊勢丹でもスーツをたのまれたのでは?)そりゃ だいぶあとのことだよ
「蝋人形」をやっている時にね 大学の先生の月給が二百円のころ 僕の月給が六十円だよ
ぼくがはたちすぎ 西條先生はそのころ四十歳くらいだよ 働き盛りだ 大正末期から昭和初にかけてね 童謡も作れば歌も作るし ひとつ書けば二百円くらいになるんだから 一晩でそのくらい飲んじゃうんだよ 西條先生と先生の奥さんと三人で銀座の何とかいう料亭へ行ったことがあるんだよ ふぐを食べたんだ 三人で行ってそれが三十円くらいだよ 僕の給料の半分だからね 今なら十万円くらいだとして一人二~三万円だよ 鹿鳴館っていったかな 大正から昭和にかけてね 童謡も作れば歌も作るし
お京たん そういっていたよ 下宿の娘さん 学生時代は小石川 江戸川を渡ると神楽坂
昔の花街だよ そして学校だ モダンな同潤会江戸川アパートがあってさ 今でもある?
ふぅーん (そこに住んでいた画家神原泰)知らない 直接は
「蝋人形」捨てちゃった 過去を捨てるように(**)その頃は 阿佐ヶ谷にいて
今でいう独身貴族だね 人力車代を残しておいて 飲んじゃうんだから 結核でさ
歩いて帰る元気がないんだから
昼間は二日酔いでぼぉーっとしていて ランボオなんか訳しているから よく誤訳だって言われたよ(***) でもいいんだよ 大切な所は誤っていないんだから そんな枝葉のところはどうだって 本筋を誤らなければ
一時頃までに(仕事に)行けばいいんだもの (下宿は)八畳くらいの離れでさ
食事は朝と夜 母屋の台所へ行って食べるんだよ 自由にね
わたしが編集者で定収があって そのころのボヘミアンたちにおごっていたわけだよ
その中に絵描きがいたんだ (どなたですか?)小山田二郎だよ
絵? 言えばくれたかもしれないけどね こっちは持つということに興味が無いからさ
革命とは清らかなものだよ
(卒論のデジタル保存願いが来て)
こういうのが来たよ つまり卒業論文だよ そういうことだ
その(ご自分の)あといないっていうことだよ それも吉江先生が認めてくれたからだよ
五月二十五日(水)
(朝日の連載中央線のうた阿佐ヶ谷の巻から) 阿佐ヶ谷の並木道 阿佐ヶ谷時代
ちがうよ 北口のほうだよ 書くものは? 万年筆でもいいよ
上林暁の家へ行ったよ 下駄をはいていたよ 青柳は慶応の仏文を出ていてね
家はこっち(南)のほうだ この辺だったかな 上林はこっち(北)だ そうピノチオだ(北口の中華料理店)
我々はちょっと下だから 仲間には入れてもらえなかったんだ
そのころは 西條八十のところへ行っていたから こっちは月給をもらっていたから背広なんか着ているんだよ そうすると木山捷平が「洋行帰りだねぇ」なんて言ったりしてさ こんなもんだよ みんな貧乏でさ
何て言ったっけ? 原爆のことを書いた ちょっと上のひとで 井伏鱒二だ 彼もいたよ
(尾池和子「大島博光語録」)
西條先生もとんだのを拾っちゃったと思ったろうよ アナーキストにはなると思っていたんじゃない? それがコミュニストになっちゃったんだから
先生はランボオを研究していてね 僕がランボオを卒論にしたら 吉江先生がほめてくれたんだよ 西條先生の先生が吉江孤雁先生だからね それで西條先生も評価してくれたわけだ
『深夜の通行人』くらいだね 戦争中に書いた中で いいものはできなかったよ
<『蝋人形』の編集時代に>
文壇へ出るチャンスもあったけれど その頃はそんなものと思っていたし
西條先生の誂えていた洋服屋が来て 僕も頼んだんだよ その頃八十円もしたよ
あの頃が華だったね(伊勢丹でもスーツをたのまれたのでは?)そりゃ だいぶあとのことだよ
「蝋人形」をやっている時にね 大学の先生の月給が二百円のころ 僕の月給が六十円だよ
ぼくがはたちすぎ 西條先生はそのころ四十歳くらいだよ 働き盛りだ 大正末期から昭和初にかけてね 童謡も作れば歌も作るし ひとつ書けば二百円くらいになるんだから 一晩でそのくらい飲んじゃうんだよ 西條先生と先生の奥さんと三人で銀座の何とかいう料亭へ行ったことがあるんだよ ふぐを食べたんだ 三人で行ってそれが三十円くらいだよ 僕の給料の半分だからね 今なら十万円くらいだとして一人二~三万円だよ 鹿鳴館っていったかな 大正から昭和にかけてね 童謡も作れば歌も作るし
お京たん そういっていたよ 下宿の娘さん 学生時代は小石川 江戸川を渡ると神楽坂
昔の花街だよ そして学校だ モダンな同潤会江戸川アパートがあってさ 今でもある?
ふぅーん (そこに住んでいた画家神原泰)知らない 直接は
「蝋人形」捨てちゃった 過去を捨てるように(**)その頃は 阿佐ヶ谷にいて
今でいう独身貴族だね 人力車代を残しておいて 飲んじゃうんだから 結核でさ
歩いて帰る元気がないんだから
昼間は二日酔いでぼぉーっとしていて ランボオなんか訳しているから よく誤訳だって言われたよ(***) でもいいんだよ 大切な所は誤っていないんだから そんな枝葉のところはどうだって 本筋を誤らなければ
一時頃までに(仕事に)行けばいいんだもの (下宿は)八畳くらいの離れでさ
食事は朝と夜 母屋の台所へ行って食べるんだよ 自由にね
わたしが編集者で定収があって そのころのボヘミアンたちにおごっていたわけだよ
その中に絵描きがいたんだ (どなたですか?)小山田二郎だよ
絵? 言えばくれたかもしれないけどね こっちは持つということに興味が無いからさ
革命とは清らかなものだよ
(卒論のデジタル保存願いが来て)
こういうのが来たよ つまり卒業論文だよ そういうことだ
その(ご自分の)あといないっていうことだよ それも吉江先生が認めてくれたからだよ
五月二十五日(水)
(朝日の連載中央線のうた阿佐ヶ谷の巻から) 阿佐ヶ谷の並木道 阿佐ヶ谷時代
ちがうよ 北口のほうだよ 書くものは? 万年筆でもいいよ
上林暁の家へ行ったよ 下駄をはいていたよ 青柳は慶応の仏文を出ていてね
家はこっち(南)のほうだ この辺だったかな 上林はこっち(北)だ そうピノチオだ(北口の中華料理店)
我々はちょっと下だから 仲間には入れてもらえなかったんだ
そのころは 西條八十のところへ行っていたから こっちは月給をもらっていたから背広なんか着ているんだよ そうすると木山捷平が「洋行帰りだねぇ」なんて言ったりしてさ こんなもんだよ みんな貧乏でさ
何て言ったっけ? 原爆のことを書いた ちょっと上のひとで 井伏鱒二だ 彼もいたよ
(尾池和子「大島博光語録」)
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