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谷耕平「デカブリストの妻」あとがき

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「デカブリストの妻」 あとがき     谷耕平

(1)ネクラーソフの青年時代──半餓えの生活

 昨一九四六年十二月は、ネクラーソフ(ニコライ・アレクセーヴィチ)が生れ(一八二一年十二月四日……新暦)てから、満百二十五年にあたった。ソ聯ではこの詩人を記念するために、大規模な全集の発行が計畫、實行され、全聯邦をあげて盛大なお祭が行われた。十九世紀ロシヤ詩人の中で、彼ほどに民衆に親しまれ、今もなお廣く讀まれている詩人は少い。

 彼の父、アレクセイは、中流の地主貴族であったが、ニコライが生れると間もなく、陸軍士官(少佐)の職をやめ、ヤロスラーヴリの市からほど近い、親ゆずりの領地グリシェネヴォという、ヴォルガ河のほとりの小村にひっこんで、當時のロシヤ小地主に通有の無氣力で淫蕩な生活の中で、しだいに家産をかたむけてしまった。母のエレーナは、當時ロシヤよりも文化の高かったポーランド、ワルソーの生れで、こころやさしく文學にも音樂にも通じて、教養の高い婦人であった。ネクラーソフの詩人としての素質は、この母からうけている、といわれる。
 ヤロスラーヴリのギムナジャヤ(帝制時代の八年制中學校)へ入るまでの十二年間を、父の家でくらしたネクラーソフの幼いこころには、農奴制のおそろしい笞の下で、「地主の家の最下等の犬のくらしさえ、うらやんでいる」ような(一八四六年作「ふるさと」)、あわれな農奴のすがたが焼きつけられ、この苛酷な制度に対する、はげしい反逆といかりが芽ばえたことである。
 一八三八年(七月)近衛聯隊に入れという父のいいつけで、ネクラーソフは、ペテルブルグへ出たが、彼は父のいいつけにしたがわずに、大學文科の聴講生になってしまった。没落地主の父からは、いいつけにそむいたむすこへの送金は一錢もなかった。これから長い間の半餓えの生活がはじまる。安い家庭教師、手紙や届書の代筆、雑誌編集の手つだい、……出来る仕事は何でもしたが、なおかつ滿足な食事をとることが出来ず、嚴塞のさ中に屋根裏の貸間からさえ追い出されて、浮浪者の集まる地下室の木賃宿を轉々としなければならないような狀態の中で、大都會の生活の波に押し流されたみじめな民衆の生活を、底の底まで彼は知りつくした。後年民衆の「涙と復讐の歌い手」として大をなした詩人の精神は、この時代にきたえられたのであった。
 こうしたむざんな生活の中でも、すでに少年の日にめざめた文學への情熱は失せなかった。
 一八四〇年の初め、或る親切な人の援けによって詩集「まぼろしとひびき」が出版された。これは当時ロシヤの讀書界に流布していた、ロマンチックな、誇張的な詩で、その年三月、民主的批評家の第一人者ベリンスキィは、こうした詩が「現實の乱展のために」有害である、というきびしい批評を、雑誌「祖國の記錄」に乱表した。ネクラーソフはこの意見にしたがって、まだ売れ残っている本屋の店頭から自作の詩集を全部買いあつめ、これを廃棄してしまった。
(つづく)

(ネクラーソフ作・谷耕平訳「デカブリストの妻」新星社 昭和二十二年)

表紙


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