大島博光と雑誌「同時代」
重田暁輝
昨年の十月十二日、長野市で開催された現代詩ゼミナール(日本現代詩人会、長野県詩人協会主催)に清水茂氏が講演にいらっしゃることを知ったのは、八月半ばのことだった。私は長野市松代にある大島博光記念館にお盆休みを利用して一週間程滞在していた。松代出身の詩人で仏文学者の大島博光は私の母方の祖父にあたる。ゼミナールの翌日に松代ツアーが予定されていて、記念館もそのルートに組まれていたので叔父の大島朋光館長と小林園子事務局長と共に私も一日目の講演会に参加することになったのだった。
その時は私が記念館の事業に携わるようになってまだ間もない頃で、保管されている蔵書や博光宛ての書簡類の整理もまだ緒についたばかりだった。
私の祖父大島博光への当初の主な関心事は、私が大学院で研究対象とした小林秀雄をめぐるもの、すなわちランボーのことと、一方で、博光と齊藤磯雄の交友関係が確認されていたことから、雑誌「同時代」との何らかの関わりの所在の如何にあった。
清水茂氏が講演にいらっしゃると知ったとき、詩人で仏・独文学者の片山敏彦の名をはじめ(清水氏は片山敏彦の高弟にあたられる)、『地下の聖堂 詩人片山敏彦』、『アシジの春』、また『イヴ・ボヌフォワ詩集』(いずれも小沢書店刊)、そして「同時代」のことなどが私の頭の中を駆けめぐった。たとえ直接には博光との関わりはないとしても、私の敬愛する片山敏彦や「同時代」の詩人たちについて清水氏にお話しをお聞きできることを思うと、期待に胸が高まった。
これに前後してだったと思うが、博光の蔵書や書簡類を整理していくうちに、彼と「同時代」との関係が薄々ながら徐々に浮かび上がってきていた。
西條八十のもとでの「蝋人形」編集時代(一九三五─一九四四年)の後半期において博光と親しい間柄であった詩人に龍野咲人《たつのさきと》がいるが、博光の蔵書に保管されている龍野の詩集『水仙の名に』(一九四三年)には「片山敏彦さんにささぐ」の献辞が記されていた。戦後、一九四六年に小諸で山室静を中心にして創刊された雑誌「高原」には、片山敏彦と龍野咲人も主要執筆者として参加しており、その当時の山室、片山らとの交流のことを龍野は後にあるエッセイのなかで回想している(「青いスミレのゆらめく中で」『山国の抒情』一九七七年)。龍野と親しい詩人仲間であった博光であるから、あるいは片山敏彦の人となりは龍野からよく聞き知っていたかもしれない。 また博光の蔵書には雑誌「同時代」(第二次)が今のところ二冊確認できている。(第四七号「特集 美術」一九八六年七月第四八号「特集 齊藤磯雄追悼」一九八七年二月)いずれも矢内原伊作から贈られたものと思われ、一冊には「ネルーダの試訳をご覧にいれます」との一筆書が添えられていた。ここで矢内原の訳出した「マチュ・ピチュの高み」は、すでに一九七二年、角川書店刊「世界の詩集」シリーズの博光訳による『ネルーダ詩集』に収録(抄訳)されていたからだろう。この矢内原伊作訳が後に豪華な単行本として刊行された際に、博光はこの書評を書いている(「文化評論」一九八八年三月)。
片山敏彦をはじめとした「同時代」の詩人や作家たちは、それまでの私にとって、いわば文学的飢渇が潤される豊かな源泉のような存在としてあった。博光が間接的にでもこれらの詩人たちと関係があったことに、私は当然ながら喜んだ。そしてこの喜びが倍加されて、ほとんど眼前に形をもって現実化していく光景を目のあたりにすることになるのは、現代詩ゼミナールが開催されるほんの二週間前のことだった。
松代での夏の休暇から帰って程なく、私は何とはなしに『片山敏彦の世界』(みすず書房一九八八年)に目を通していた。一九五八年の『片山敏彦詩集』刊行記念会の集合写真をながめていると、ひとりの人物の名前に眼が留った。安西良子さんのお名前だった。それというのも、博光記念館に保管されている祖父宛ての書簡のなかに安西良子さんの署名のある封筒がたくさんあり、それでお名前が記憶に残っていたからだった。同じページの下段にある片山敏彦訳『ジャン・クリストフ』完結を祝っての記念写真(一九五四年)にも彼女が並んでいることから、片山敏彦と近しい関係にあった方だということが推測された。そしてどちらの写真にも清水茂氏が写っておられることに、私はもちろん気を留めていた。片山敏彦、清水茂氏と博光の間に間接的にでも何らかの関係があるかもしれないとの期待感に、私の心はさわいだ。
九月の末に松代の記念館に行くと、さっそく安西良子さんのお手紙に目を通すことをはじめた。その主な内容は博光の詩や訳詩をめぐるものだった。このように書くのは孫として憚られる気もするが、公平にみて、それは博光と彼の紹介する詩人たちへの賞賛といってよかった。お手紙から察する限り、安西さんは博光の〈詩人の魂〉に心を打たれたようなのだ。
書簡は集めてみるとざっと八十通はあり、後に安西さんのお手紙の記述からわかったことには、博光との往復書簡は約六年ほどの間(一九九七―二〇〇三年、推定)で百通を超えるとのことだった。博光の八七歳から九三歳になる晩年における、このような安西さんとの詩をめぐる盛んな手紙のやりとりは、彼に多くの慰めと喜びを与えたに違いない。そのことは安西さんのいかにも楽しげな書きぶりから容易に想像された。詩を介して交わされた二人の喜びが、安西さんの言葉を通して私自身にも波及してくるのが感じられた。彼女のお手紙を読んでいるあいだ、私は詩心が人と人を媒介して惹き合わせるという特別な作用の実感のただ中にいたのだと思う。
私の期待にかなって、お手紙にはしばしば片山敏彦の名前が登場していた。彼の想い出のことや関連する詩人たちのこと、また「片山敏彦文庫だより」(敏彦の長女朝長梨枝子さんを代表として発行されていた小冊子)に掲載された片山自筆の草稿詩のコピーが同封されたりしていた。
そしてそれ以上に私を驚かせまた喜ばせたのは、やがて私の眼にある名前が飛びこんできて思わず息を飲んだ時のことだった。そこには「私の弟(清水茂)」という文字があった。安西良子さんは清水茂氏のお姉様だったのである。博光と片山敏彦、清水茂氏をめぐるこれまで見え隠れしていた連鎖の糸が、ここで一点の結び目を見出したのだった。
安西さんのお手紙によると、彼女が博光にヘルダーリンの『ヒュペーリオン』を勧められ、そこで弟様である清水茂氏に鎌倉文庫版(吹田順助訳一九四七年)のものをお借りになったとのことだった。かつて博光はヘルダーリンの詩を二篇訳出しているが(「蝋人形」一九四〇年十月 仏語からの重訳)、戦後この詩人に言及することは絶えてなかったことなので、これも私を喜ばせた。
そのお手紙の末尾に安西さんは次のようなことをお書きになっている。
それからヘルダーリンを探していた時、有隣堂と言う横浜では一番大きな書店の《詩》のコーナーに、みすず書房から改訂版で出した「リルケ詩集」(片山敏彦訳)と、大島さんの『マチャード・アルベルティ詩集』が偶然並んでいるのです。御二人の尊敬する詩人の御本が一緒にあるのですっかり嬉しくなって見とれていました。(どうぞ両方共売れますように!)」
これを読んでの私の歓喜が如何ほどのものであったか、ご想像されたい。*
現代詩ゼミナールにて清水茂氏にお話しをお伺いした際、安西さんはもうお会いできる方ではないことを知った。祖父と片山敏彦、清水茂氏との関係という、私にとってはあまりに高貴な御縁を授けてくださった安西さんに、私から感謝の言葉をお伝えしたかっただけに、想いに余るものがあった。この安西さんが残してくださった結び目を心から大切にし、より確かなものに育むことができればというのが、今の私の願いである。
(『狼煙』74号 2014年5月)
*清水茂氏は先月(2020年1月16日)ご逝去されました。87歳。2013年の現代詩ゼミナール(長野市)での講演「存在と詩のことば」でイヴ・ボヌフォワの詩を紹介し、大震災後にあって「いま、この時、あきらめるな、・・・絶望して死んではならないと私たちに言い遺すがいい。」と語られたことが思い出されます。
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