プロローグ
「反戦・詩人と市民のつどい」まで (小崎軍司)
ここに掲げる小特集「反戦・反核を訴える詩人たち」は、一九八四年六月十日に長野県上田市の上田市民会館で開かれた反戦・詩人と市民のつどいの全記録である。
この全国集会は(戦争に反対する詩人の会)と同会会員で長野県に住む有志が中心になって構成された〈反戦・詩人と市民のつどい長野県実行委員会〉の共催によって設定されたが、実質的には殆ど後者により企画、推進された。一九八三年十月(戦争に反対する詩人の会)世話人会で、世話人のひとり長田三郎氏により上田市での計画が報告され世話人会より長田氏に一任された。以来、氏は会場の確保、講師との交渉など自費を投じて積極的に行なってきた。私もたびたび意見を求められ、相談にのり、また、当時の長野県詩人協会事務局長だった松村好助氏中村貞友氏も協力してくれた。
長田氏は「連帯の環を拡げて」と題し書いているが、実際、主催団体の組織づくりから手をつけなければならなかったので、大変だった。私は、既成の政党や政治団体、労働組合などの組織には頼らないようにした。苦労でも、既成政治団体や労組の号令などによってではなく、アメリカの極東における核戦略にまきこまれ、国民の医療、福祉、教育費などを切り詰め、戦争しても勝利する可能性など全然ない軍事費に多額な国家予算を使っている、きわめて危険な政治権力者の姿勢に対し、危惧の念を抱き、鋭く告発している市民各層の自発的な参加に期待した。 賛同者は日を追ってふえていった。一九八四年四月二十九日には(反戦,詩人と市民のつどい長野県実行委員会)の正式発足をみた。委員長に長田三郎、副委員長に中村貞友、松村好助、保坂富男、それにわたしが事務局長に選ばれた。この会の決定により集会の会場には、過去に(戦争に反対する詩人の会)が東京都内と横浜で開いた三回の「詩の朗読と講演・反戦詩人のつどい」を継承し、「第四回、詩の朗読と講演、云々」を掲示することや、同会会報の長野県版の編集発行、参加をよびかけるチラシの作成などにとりかかることになった。
まず、「いま、私たちは核の脅威にさらされています。先端技術の発達に伴い米ソの核軍拡競争は激化しています。ヨーロッパでは「陸の核」の配備が増加され、アジア・太平洋地域においては、アメリカが「海の核」である対地上攻撃用巡航ミサイル「トマホーク」を搭載した軍艦をふやしています。「トマホーク」を載せて第七艇隊ニュージャージーや攻撃型原潜(SSN)が、横須賀や佐世保へ寄港しようとしています。この寄港は、両港が実質的に核戦略基地になることを意味します。
唯一の被爆国に住む私たちは、これを傍観できません。政府は非核三原則の維持を言明していますが、核軍縮や核離脱政策に消極的であり、核廃絶は現実的でないなどといい、逆に軍事費だけの突出した増額を平然と行なっています。
私たちは、詩の書き手として、限りなく人間の生命を尊びいとおしむ一人の人間として、わが国の核基地化に反対します。この集会が(詩)を媒介にして、人間の生命を尊ぶ人々の連帯の場となることを望みます。」というよびかけを印刷して広範囲に配布した。
「戦争に反対する詩人の会会報・長野県版」には、殿内芳樹氏からつぎのような詩が寄せられた。
クライシスを超えるために 殿内芳樹
トマホークとSS20の交叉する
谷間の列島でわれわれが
かかなくてはならない詩篇は
もうとっくにきまっている
日ましに砂漠くさくなっていく列島で
身辺雑記詩や不毛の幻覚詩や自己疎外詩を
かくことはなんともはかない
日常茶飯の些事を独断と自慰のメタフォアにすりかえるの もまたやたらにむなしい
それを全く抹殺することはできないが
いまは意識のまぐちをもっとひろげるときだ
戦略詐術がグローバルに拡大し
核の脅威がギザギザの波型を描く今日
詩人は詩のオブジェクティブな行動領域に
ひたすら挑まなくてはなるまい
不戦と核廃絶はわれわれにとって
まさに不可避の主題とならざるをえまい
死の灰を拒絶する詩を
政治的不純ときめつけた詩人がかつていたが
いまはもう
そんな閉ざされた詩人はひとりだっていない
詩人の視座はすべて鋭く見開かれている
崩壊と破滅の秒よみの金属音が耳染を裂く
このどんづまりの世紀の底を脱けでるために
われわれはわれわれにできることを
われわれがぜひしなくてはならないことを
どこまでもやり遂げなくてはなるまい
このどす黒い奈落のクライシスを超えるために
詩人は詩プロパーの使徒として
自ら身を焼いては蘇生しつづける
熾烈な行動をくりひろげなくてはなるまい
すがすがしい響きを持ち、胸底にしみわたるすぐれた作であった。このほか広島大学名誉教授の森滝市郎氏、『みずき芽吹くとき』の作者の山口勇子氏、詩集『地方自治抄』で大資本による乱開発で荒廃していく地方都市の人々の心をうたい上げた依田竜治氏、共産党参議院議員の上田耕一郎氏、信州文芸誌協会会長で小説『人虫記』の作者林俊氏、『小熊忠二詩集』を持つ詩人小熊忠二氏、わだつみ会理事長の中村克郎氏からエッセイや詩が寄せられた。この編集・印刷を進行させながら六月三日夜、上田市中央公民館で拡大実行委員会を開催し、開催当日の会場設定、運営などを細部にわたって検討し、各委員の担当をきめたのである。
いよいよ十日、会場の上田市民会館会議室は開会まぎわにはほぼ満員になった。
私は「開会のことば」の中で上田市民会館の建つ場所は、第二次大戦末期には陸軍参謀本部の分室が置かれ、本土決戦に備えてさまざまな動きをしていた場所であり、ここから十キロ離れた東塩田小学校は仮兵舎になって中野重治がそこで終戦を迎え、加藤周一も当時の国立上田結核療養所(いまの国立東信病院)医師として同所で敗戦に遭遇したと述べた。
峠三吉の青木文庫版『原爆詩集』の「解説として」のなかで、新聞も自由に読めなかった軍隊だったが、小学校の玄関さきに小学生が配達を受け持っている新聞が配給所からとどけられ、一時置かれているのを知って、分配の隙をみて読むことができた。「ある日の朝、広島に新しい型の猛烈な爆弾が落とされたことを知った。私たちは原子爆弾ということを考えたが、原子爆弾ときめることもできず、第一わたしたちは、原子爆弾とはどんなものかということも全く知らなかったのであった。続いてわたしたちはソヴィエト同盟の参戦を知った」と中野重治が書いていたのを思い出したからであった。
一九六三年六月下旬、わたしは広島市の平和記念館を訪れた。峠三吉の没後三十年を記念する事業の一つである「峠三吉遺品展」が開会したつぎの日であった。会場には日記帳をはじめ、ポスターの原画や詩稿などが展示されていた。病弱のうちに被爆した身体で、よくもこれだけの文化活動ができたものだと、ひどく感心した。チラシ一枚刷るにも原紙切りから印刷までした時代が思い出された。会場で求めた『詩民』(広島詩人会議発行)十号の峠三吉特集号に寄せられた人々の文章にも心を打たれた。
あのむごい目にあわされた日本人が、軍備拡張により、じわじわと戦争への道を走り出している現政権をなぜもっと批判し、軍拡政策をくいとめようとしないのか。トマホークを搭載しているかも知れぬアメリカの軍艦を港に自由に出入りさせておいて、わが国民の悲願にも近い北方領土の返還などを主張して、国民の感情に訴え反ソ感情をあおろうとする中曽根政権の姑息な態度に、政治的に動いたことのないわたしだったが、いい知れぬ危機感を持つようになっていた。そこへ長田三郎氏より、「第四回詩の朗読と講演、反戦詩人のつどい」を開くので協力せよとのよびかけがあり、すすんで参加したのである。
だが、先にも書いたように、「詩人のつどい」だけにはしたくなかった。会場を見渡すと、保守政党を支持していたと思われる人々の顔も見えた。「四時間半をみなさんの力で、有意義な時間に創造して下さい」といって「開会のことば」を閉じた。
以下はほぼ会の進行に従って当日の様子を再現した。講演筆記は私がまとめた上で固有名詞など不明な点のあるものについては講演者に目を通し、加筆補正して戴いた。朗読詩の一部は割愛せざるを得なかった。
「会報」第四号(七月十五日発行)紙上で、元大正製薬KK常務取締役で詩人の土屋二三夫氏は「今戦争でないからという安心はない筈、詩が真実を書くのであれば、この会の目的を厳しく心しなければならない日々、反戦反核を草の根に全ての詩人の筆に」「遠方にもかかわらず率先して駆けつけられた方、また朗読に講演にご協力頂いた会員及び世話人の方々に、厚くお礼申し上げる次第であります」と書いておられたのをここに紹介しておく。
目さきの暮らしをよくするため、子どもに学歴をつけるため、子どもの出世のため、近所づきあいでなんとなく子どもと、いろいろ理由を並べて、いいたいこともいわずにいたら、やがて私たち無力な庶民はどんな危険な運命をたどるかわからない。そんなことを自覚した市民がふえているからであろう。集会は予想以上にもりあがった。
(『信州白樺』61・62・63合併号 特集「反戦・反核を訴える詩人たち」 1985年2月)
「反戦・詩人と市民のつどい」まで (小崎軍司)
ここに掲げる小特集「反戦・反核を訴える詩人たち」は、一九八四年六月十日に長野県上田市の上田市民会館で開かれた反戦・詩人と市民のつどいの全記録である。
この全国集会は(戦争に反対する詩人の会)と同会会員で長野県に住む有志が中心になって構成された〈反戦・詩人と市民のつどい長野県実行委員会〉の共催によって設定されたが、実質的には殆ど後者により企画、推進された。一九八三年十月(戦争に反対する詩人の会)世話人会で、世話人のひとり長田三郎氏により上田市での計画が報告され世話人会より長田氏に一任された。以来、氏は会場の確保、講師との交渉など自費を投じて積極的に行なってきた。私もたびたび意見を求められ、相談にのり、また、当時の長野県詩人協会事務局長だった松村好助氏中村貞友氏も協力してくれた。
「趣意書の手書きの草稿をコピーして、長野県内の詩人や文学サークルに毎日十通か二十通ずつ送る作業が続けられた。最初全く自信はなかった。しかし反響はすぐに表れた。元長野県詩人協会会長の北沢勝二氏からは激励の言葉と共にカンパが送られてきた。西山克太郎氏、腰原哲朗氏、高橋渡氏をはじめとして、中沢蔵人氏、藤岡弘造氏、前川政明氏、伊藤貞彦氏等県内外からつぎつぎと賛同と激励の言葉が送られてきた。」
長田氏は「連帯の環を拡げて」と題し書いているが、実際、主催団体の組織づくりから手をつけなければならなかったので、大変だった。私は、既成の政党や政治団体、労働組合などの組織には頼らないようにした。苦労でも、既成政治団体や労組の号令などによってではなく、アメリカの極東における核戦略にまきこまれ、国民の医療、福祉、教育費などを切り詰め、戦争しても勝利する可能性など全然ない軍事費に多額な国家予算を使っている、きわめて危険な政治権力者の姿勢に対し、危惧の念を抱き、鋭く告発している市民各層の自発的な参加に期待した。 賛同者は日を追ってふえていった。一九八四年四月二十九日には(反戦,詩人と市民のつどい長野県実行委員会)の正式発足をみた。委員長に長田三郎、副委員長に中村貞友、松村好助、保坂富男、それにわたしが事務局長に選ばれた。この会の決定により集会の会場には、過去に(戦争に反対する詩人の会)が東京都内と横浜で開いた三回の「詩の朗読と講演・反戦詩人のつどい」を継承し、「第四回、詩の朗読と講演、云々」を掲示することや、同会会報の長野県版の編集発行、参加をよびかけるチラシの作成などにとりかかることになった。
まず、「いま、私たちは核の脅威にさらされています。先端技術の発達に伴い米ソの核軍拡競争は激化しています。ヨーロッパでは「陸の核」の配備が増加され、アジア・太平洋地域においては、アメリカが「海の核」である対地上攻撃用巡航ミサイル「トマホーク」を搭載した軍艦をふやしています。「トマホーク」を載せて第七艇隊ニュージャージーや攻撃型原潜(SSN)が、横須賀や佐世保へ寄港しようとしています。この寄港は、両港が実質的に核戦略基地になることを意味します。
唯一の被爆国に住む私たちは、これを傍観できません。政府は非核三原則の維持を言明していますが、核軍縮や核離脱政策に消極的であり、核廃絶は現実的でないなどといい、逆に軍事費だけの突出した増額を平然と行なっています。
私たちは、詩の書き手として、限りなく人間の生命を尊びいとおしむ一人の人間として、わが国の核基地化に反対します。この集会が(詩)を媒介にして、人間の生命を尊ぶ人々の連帯の場となることを望みます。」というよびかけを印刷して広範囲に配布した。
「戦争に反対する詩人の会会報・長野県版」には、殿内芳樹氏からつぎのような詩が寄せられた。
クライシスを超えるために 殿内芳樹
トマホークとSS20の交叉する
谷間の列島でわれわれが
かかなくてはならない詩篇は
もうとっくにきまっている
日ましに砂漠くさくなっていく列島で
身辺雑記詩や不毛の幻覚詩や自己疎外詩を
かくことはなんともはかない
日常茶飯の些事を独断と自慰のメタフォアにすりかえるの もまたやたらにむなしい
それを全く抹殺することはできないが
いまは意識のまぐちをもっとひろげるときだ
戦略詐術がグローバルに拡大し
核の脅威がギザギザの波型を描く今日
詩人は詩のオブジェクティブな行動領域に
ひたすら挑まなくてはなるまい
不戦と核廃絶はわれわれにとって
まさに不可避の主題とならざるをえまい
死の灰を拒絶する詩を
政治的不純ときめつけた詩人がかつていたが
いまはもう
そんな閉ざされた詩人はひとりだっていない
詩人の視座はすべて鋭く見開かれている
崩壊と破滅の秒よみの金属音が耳染を裂く
このどんづまりの世紀の底を脱けでるために
われわれはわれわれにできることを
われわれがぜひしなくてはならないことを
どこまでもやり遂げなくてはなるまい
このどす黒い奈落のクライシスを超えるために
詩人は詩プロパーの使徒として
自ら身を焼いては蘇生しつづける
熾烈な行動をくりひろげなくてはなるまい
すがすがしい響きを持ち、胸底にしみわたるすぐれた作であった。このほか広島大学名誉教授の森滝市郎氏、『みずき芽吹くとき』の作者の山口勇子氏、詩集『地方自治抄』で大資本による乱開発で荒廃していく地方都市の人々の心をうたい上げた依田竜治氏、共産党参議院議員の上田耕一郎氏、信州文芸誌協会会長で小説『人虫記』の作者林俊氏、『小熊忠二詩集』を持つ詩人小熊忠二氏、わだつみ会理事長の中村克郎氏からエッセイや詩が寄せられた。この編集・印刷を進行させながら六月三日夜、上田市中央公民館で拡大実行委員会を開催し、開催当日の会場設定、運営などを細部にわたって検討し、各委員の担当をきめたのである。
いよいよ十日、会場の上田市民会館会議室は開会まぎわにはほぼ満員になった。
私は「開会のことば」の中で上田市民会館の建つ場所は、第二次大戦末期には陸軍参謀本部の分室が置かれ、本土決戦に備えてさまざまな動きをしていた場所であり、ここから十キロ離れた東塩田小学校は仮兵舎になって中野重治がそこで終戦を迎え、加藤周一も当時の国立上田結核療養所(いまの国立東信病院)医師として同所で敗戦に遭遇したと述べた。
峠三吉の青木文庫版『原爆詩集』の「解説として」のなかで、新聞も自由に読めなかった軍隊だったが、小学校の玄関さきに小学生が配達を受け持っている新聞が配給所からとどけられ、一時置かれているのを知って、分配の隙をみて読むことができた。「ある日の朝、広島に新しい型の猛烈な爆弾が落とされたことを知った。私たちは原子爆弾ということを考えたが、原子爆弾ときめることもできず、第一わたしたちは、原子爆弾とはどんなものかということも全く知らなかったのであった。続いてわたしたちはソヴィエト同盟の参戦を知った」と中野重治が書いていたのを思い出したからであった。
一九六三年六月下旬、わたしは広島市の平和記念館を訪れた。峠三吉の没後三十年を記念する事業の一つである「峠三吉遺品展」が開会したつぎの日であった。会場には日記帳をはじめ、ポスターの原画や詩稿などが展示されていた。病弱のうちに被爆した身体で、よくもこれだけの文化活動ができたものだと、ひどく感心した。チラシ一枚刷るにも原紙切りから印刷までした時代が思い出された。会場で求めた『詩民』(広島詩人会議発行)十号の峠三吉特集号に寄せられた人々の文章にも心を打たれた。
あのむごい目にあわされた日本人が、軍備拡張により、じわじわと戦争への道を走り出している現政権をなぜもっと批判し、軍拡政策をくいとめようとしないのか。トマホークを搭載しているかも知れぬアメリカの軍艦を港に自由に出入りさせておいて、わが国民の悲願にも近い北方領土の返還などを主張して、国民の感情に訴え反ソ感情をあおろうとする中曽根政権の姑息な態度に、政治的に動いたことのないわたしだったが、いい知れぬ危機感を持つようになっていた。そこへ長田三郎氏より、「第四回詩の朗読と講演、反戦詩人のつどい」を開くので協力せよとのよびかけがあり、すすんで参加したのである。
だが、先にも書いたように、「詩人のつどい」だけにはしたくなかった。会場を見渡すと、保守政党を支持していたと思われる人々の顔も見えた。「四時間半をみなさんの力で、有意義な時間に創造して下さい」といって「開会のことば」を閉じた。
以下はほぼ会の進行に従って当日の様子を再現した。講演筆記は私がまとめた上で固有名詞など不明な点のあるものについては講演者に目を通し、加筆補正して戴いた。朗読詩の一部は割愛せざるを得なかった。
「会報」第四号(七月十五日発行)紙上で、元大正製薬KK常務取締役で詩人の土屋二三夫氏は「今戦争でないからという安心はない筈、詩が真実を書くのであれば、この会の目的を厳しく心しなければならない日々、反戦反核を草の根に全ての詩人の筆に」「遠方にもかかわらず率先して駆けつけられた方、また朗読に講演にご協力頂いた会員及び世話人の方々に、厚くお礼申し上げる次第であります」と書いておられたのをここに紹介しておく。
目さきの暮らしをよくするため、子どもに学歴をつけるため、子どもの出世のため、近所づきあいでなんとなく子どもと、いろいろ理由を並べて、いいたいこともいわずにいたら、やがて私たち無力な庶民はどんな危険な運命をたどるかわからない。そんなことを自覚した市民がふえているからであろう。集会は予想以上にもりあがった。
(『信州白樺』61・62・63合併号 特集「反戦・反核を訴える詩人たち」 1985年2月)
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