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石関みち子「九〇号 ありがとう」

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(『狼煙』90号 2019年11月)

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 九〇号 ありがとう
               石関みち子

 われらが機関誌「狼煙」が90号になった。オレンジ色の3人の顔のある創刊号の表紙。1990年12月の発行。扉ののろし山の写真を焼増しして一枚ずつ貼り付けた。大島博光氏の詩と訳詩、19人が作品を寄せて98頁。創刊にあたって、代表の板倉弘実さんのことば「平和・進歩・民主主義のためにつなぐ詩の創造めざして」「松代大本営地下壕を平和の砦とする運動をすすめる」とある。
 「狼煙」のイメージになっている森貘郎さんの版画の表紙が36号まで続き、山口雅三さん、二木佐紀さんのあと繋いで、館長大島朋光さんの写真の表紙になるのは66号からである。詩の評は増岡敏和さん、小熊忠二さん、竹村照代さんにお願いし、そのあと少し繋いで八町敏男さんにお願いしたのは81号から。
 3号は22人で104頁、6号は25人で100頁。14号開くと吉岡よしさん、富森啓児さん、木立夕子さん、渡辺好子さんなど24人が並ぶ。17号の私の〝盆踊〟が詩人会議の自由のひろばで評価された。(1995年)書き手の減少に伴い2002年総会を開いて体制をつくり、編集後記の分担やカットを入れるなどの工夫、45号から奥付を小林そのさんにする。51号の「日本のうたごえ祭典in長野」で、組曲「光の種子まくとき」に田畑つる子さん、小林、石関と事務局3人が参加。
 「光の種子まく合唱団」韓国へと56号に。
 2006年1月、博光氏が亡くなられた。追悼特集をつくることになり、板倉さん、森さんのお力を得て、57号~59号の貴重な3冊が出来た。
  57号「母なる千曲川と大島博光」
  58号「昭和モダニズムと大島博光」
  59号「大島博光と戦後詩」
 61号に大島博光記念館をつくる会が動き始め広がり、62号には2008年8月にオープンという大島館長の開館報告、土井大助名誉館長のあいさつがある。なんという素的な、感動的なことだろう。66号に大島博光生誕100年記念のつどい、松代文化ホールにて。2011・3・11東日本大震災の年、67号より2段組みになる。
 71号に詩人会議創立50周年記念祝賀会に館長、小林、石関参加。72号に大島博光記念館開館5周年によせての土井さんのあいさつ。博光氏の長女桃子さんと孫暁輝さんからの文章がある。73号は私の詩集「愛の讃歌」の表紙。75号から課題詩が始まる。第一回は〝耳〟であった。カットが増える、作品は25人60頁。79号で水衣糸さんの松代散策10回に。80号は八町さんの詩集「水の抽斗」の表紙。81号から大島博光年譜が始まっている。レストラン「はなや」でのうたごえ喫茶が100回と。83号に松代文化ホールにて開催された記念館主催のバイオリンコンサートに6人で朗読。85号、長野詩人会議のすてきな日と詩人会議に掲載、詩の学習会が開かれ、その場で会員が増えたことが挙げられる。86号は「光の種子まく合唱団」のコンサートが表紙に。87号、書き手が増えて、板倉さんも作品を寄せてくださるように。88号、田辺修さんの詩集「北の国へ」出版記念会の様子。2月の総会で新体制に。そして89号、大きな向日葵の表紙。平由美子さんらの詩人の輪や、夏の詩の学校への参加なども。22人68頁。
 あらためて、積み上げられた狼煙89冊、よくぞと思う。私はしばらく長野を離れていて、締切りギリギリに送りこんだことも何度も。ずっと中心にいてやりくりを背負ってきた小林さんのご苦労をしみじみ思う。感謝あるのみ。決めた行事に月例会もはじまり、事務所でもある記念館へ足を運んでくださる役員のみなさん、どうぞよろしくお願いいたします。
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