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「見者の手紙」(4)

ここでは、「「見者の手紙」(4)」 に関する記事を紹介しています。
(4)

 「ところで、この「手紙」のなかにランボオが披瀝した文学的批評を彼の新しい詩論から引き離すことはできない。ラマルチーヌやユゴー、とりわけボードレールには敬意《オマージュ》をささげながらも、彼らにあってはあまりにも古い形式が、透視《ヴォワイヤンス》の可能性を狭めて「締めつけている」と彼はいう。この詩論では古い詩形式への訣別が告げられているのである。
 それから数ヵ月後、一八七一年九月、ランボオがパリにやってきた時、彼はあらゆる既存の文学にたいする侮蔑を抱き、さらに見者の実験を追求するという断固たる意図を抱いてやってきたことになる。そして彼はたちまちみずからを「錯乱させ」、見者の実験をこころみる恰好の機会を見いだすことになる。聖なる道徳的価値を嘲笑しながら、ヴェルレーヌをともなって「地獄」へ落ちながら、ランボオはその異常な愛のなかにもまた「飲んだくれてみずから無頼の徒にする」方法を追求することになる……。

 ここまで「見者の手紙」をほとんど批判抜きで紹介してきたが、この「見者の詩法」こそは、ランボオの詩的なあやまちのみなもととなるものであり、およそ二年後に「言葉の錬金術」(『地獄の季節』)のなかでみずからこれを否定して、「狂気のひとつ」と言い、「ひとつの愚行」と言うにいたるところのものとなる。
 ランボオが未知へ到達するための方法として採用した「あらゆる感覚を錯乱させること」は、M・A・リュフが鋭く指摘するように、「ただ内面的な世界の発見に通ずるだけである」(M. A. Ruff: Rinbaud, p. 73)。この閉ざされた内面的な世界における幻覚・幻想・幻視によって、ランボオは彼本来のレアリスムから逸脱してゆく……。
 アラゴンは、ランボオが「言葉の錬金術」のなかで自分の過去を要約した最後の行文「これは過ぎさってしまったことだ。おれは今日美を讃えることを知っている」の意義を強調した後に書いている。
 「その後沈黙することになる人の最後のメッセージである、ここのところの行文を知らずして、ランボオの教えを行なうのだなどといえたものではない。一八七一年五月のデムニ宛の手紙を好むなどというのは幼稚きわまる話だ……」(『アラゴン選集」第二巻二七〇ページ、服部伸六訳、飯塚書店)
(この項おわり)

新日本新書『ランボオ』

ヨット

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