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「見者の手紙」(3)

ここでは、「「見者の手紙」(3)」 に関する記事を紹介しています。
(3)

 「手紙」にもどろう。
 「第一次ロマン派は、みずからまったく気がつかずに〝見者〟であった。彼らの魂の練磨は偶然に始まった。それは見捨てられた、しかし石炭の燃えている機関車で、ときどきレールの上を走るのだ。──ラマルチーヌはしばしば見者だが、古い形式に締めつけられている。──あまりに頑固なユゴーも、最後の著作では多くを見ている。『レ・ミゼラブル』は真の詩である。その『懲罰詩集』をおれはひそかに持っている……。
 第二次ロマン派はひじょうに見者である。……ボードレールは最初の見者であり、詩人の王であり、真の神である。その彼もまた、あまりに芸術家的な環境に生きた。かくもほめそやされる彼の形式も平凡なものだ。未知の創作は新しい形式を要求する……高踏派《パナルシアン》には二人の見者がいる。アルベール・メラと(偉大な詩人)ポール・ヴェルレーヌである……」
 そして彼ランボオは、見者の実験を試みる最初の詩人となるだろう。彼のあとには、ほかの怖るべき働き手たちがやってくるだろう。彼らは彼が倒れた地平線から立ち上ってくるだろう。彼は見者の先頭に立つ先駆者となり、指導者となるだろう。
 ここにランボオの傲慢さが顔をのぞかせる。それをみてある批評家たちは、生涯かれは仮面をつけていたと言うが、それはまったく正しくない。ランボオはじっさい自分がなりたいと願った人物になったのだ。彼は彼じしんにも、ほかの人たちにたいしても喜劇を演じはしなかった。彼にはそんな計算はなかった。彼を焼き滅ぼすことになる火の輪をくぐる時にも、彼は殉教者の果敢さでつき進んだのである。

 ところで「五月十五日の手紙」は前述したように、ときには矛盾するいろんな理念《イデエ》、思想のアマルガムをなしている。そこからはまたコミューヌの大事件が若い詩人のうちにかきたてた知的興奮を感じとることができる。たとえば「……詩人はまことに進歩の推進者となるだろう。……この未来は唯物論的であるだろう」という奇妙な一行は、一八七一年の革命家たちの理想と思想にむすびついていることは明らかである。
 またランボオはこの「手紙」のなかで、女性の解放とその未来の役割についても書いている。
 「女性のはてしない隷属がうち破られるであろう時、男性──いままで憎むべきものだった男性が、返すべきものを女性に返して、女性が女性のために女性によって生きるだろう時、女性もまた詩人となるだろう!」
 このような思想の糸口を、ランボオはミシュレ(『フランス革命史』の著者)のなかに見いだしたかも知れないが、このような思想はとりわけ、コミューヌの女たちの行動と闘争を見て、ランボオのうちに形成されたと思われる。ルイズ・ミッシェル、ナタリ・ル・メルなどの女性戦士たちは、ひとり労働者階級の解放のためにたたかったばかりでなく、女性解放のためにもたたかったのである。そして「インタナショナル」支部の活動家たちによって設立された「婦人同盟」は、「性の不平等」という資本主義的な偏見や差別と闘争することの必要を掲げていた。
(つづく)

新日本新書『ランボオ』

ロダン


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