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「見者の手紙」(2)「見者」の詩論

ここでは、「「見者の手紙」(2)「見者」の詩論」 に関する記事を紹介しています。
「見者」の詩論

 一八七一年五月十五日付のポール・デムニ宛の手紙には、じつは「見者」の詩学ばかりでなく、いろいろなイデエ、思想がアマルガムのように書きこまれている。それはギリシャ詩から説き起してロマン派の批判にいたり、「見者」の詩論を展開し、さらに詩の未来を論じ、女性の問題にも触れている。そのいくつかの要点をみてみよう。

 「我とはひとりの他者である。もしも銅がラッパとしてめざめたとしても、それは銅のあやまちではない。それはおれにはわかりきった明白なことだ。おれはおれの思考の開花に出っくわす。おれはそれを見つめ、それに耳傾ける。おれは弓をひと弾きひく。すると交響楽が奥深いところから鳴り出すのだ……」
 ここでランボオは、運命が彼を詩人にしたのだ、ということを言おうとしている。「我(おれ)とはひとりの他者である」Jeest un autre. ──この有名なテーゼは、「おれは考える、と言うのはまちがっている。ひとがおれを考える、と言うべきであろう」という言葉によって補完される。詩人の霊感は外部から、ひとりの「他者」からやってくる、と解釈する批評家もいる。
 いよいよ「見者」の詩論である。
 「おれは言おう、〝見者〟にならなければならない。おのれを〝見者〟にしなければならない。
 詩人は、すべての感覚を、長いこと、はてしなく、理論的に、錯乱させることによって、見者となる。あらゆる形式の愛、苦悩、狂気──詩人はおのれ自身を追求し、おのれのうちからあらゆる毒を汲みつくし、ひたすらおのれのうちの精髄だけを守る。それは避けることのできない拷問だ。そこで詩人は、信頼、超人的な力を必要とする。そこで詩人はとりわけ、偉大な病める者、偉大な罪人、偉大な呪われ人となり──しかも最高の〝賢者《サヴァン》〟となる。なぜなら詩人は〝未知〟へ到達するからだ……」
 ランボオがここで用いている、見者Voyantという言葉の意味をちょっと考えてみる。Voyantという語には、辞引では、見者のほかに千里眼とか透視者という訳語があてられている。辞書『プチ・ロベール』には、すでに文学用語として、ランボオの意味したところを取り入れて、つぎのようにしるされている。「ほかの人には知られないものを見、感じるにいたった者とみなされた詩人」──ランボオ自身、「見者」の内包として、「火の盗人」と言ったり、予言者とも言っている。それは詩人の使命としての側面であって、その後、この詩論によって実践され、制作された、詩の内容からみると、「見者」はむしろ幻視者と言った方がふさわしいように思われる。いわば、体系的な、あるいは科学的な幻視者ともいえよう。
 ランボオが未知に到達するために、「あらゆる感覚を錯乱させる(狂わせる)」という方法を提起しているのは興味ぶかい。詩人は意識的な「理論的な」やり方で、「おのれの魂を耕し」経験を重ね、おのれの幻視能力を自由に解き放つ。そのためのもっとも容易な手段は、時間と空間の観念を忘れさせてくれる麻薬の力をかりることである。この点で彼はボードレールの「人工楽園」から影響をうけていると思われる。ランボオが大麻《ハシッシュ》を試みたことは疑いない。一八七二年のある日、オテル・デゼトランジェで、友人カバネといっしょに大麻を吸っている彼を見た、とドゥラエは語っている。『イリュミナシオン』のなかの「酩酊の朝」もそのような体験を描いている。「おれたちはきみに断言する、方法だ!おれたちは毒を信じる。」また後の「言葉の錬金術」のなかでは、ランボオは奇妙な実験・体験をほのめかし、どのようにして幻覚を手に入れ、「あらゆる狂気のソフィスム(詭弁)」に訴えたかを物語っている。
(つづく)

新日本新書『ランボオ』

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